憤慨の亜人はこうして悪手を執る

 ーーー◆ーーー◆ーーー◆ーーー◆ーーー◆ーーー



(冷たい……)

 地べたに顔面から突っ伏したままおいらは、ひんやりとした土の感触を感じながら心のスイッチを切っていた。いや、勝手に切れたと言ったほうが正確かもしれない。

 心の中の小さなおいらは、喉から心臓が出るのではないかと疑うほどの絶叫を放ちながらのたうち転げていたのだ。体が心に追いつく前に燃え尽きたのである。くわばらくばわら……。

 しかしながら、人生で五本の指に入るほどの衝撃を受けたのである。それくらい仕方なしであろう。出来ることなら灰になった心と共に、体もこのまま大地に同化するように溶けてしまいたかった。

(はぁ〜〜ぁ)

 顔を上げるのが本当に億劫になってしまう。

 この後の事を考えれば、誰だってそうなるに違いない。

 散らばった布を片っ端から拾い集め、それを捨てるか否かを考えなければならない。おいらのことである。きっと答えが出ずに、その場に長居して一日を終えるに決まっている。

 予想外の出来事は大抵、徒労に終わる。もちろん例外もあるが、今は正しくそれだろう。

(……ん〜〜〜、…………っ)

 しかし、いつまでもそうしていることもできないのも確かである。第一に呼吸ができなかった。

 絶賛マイナス思考だったおいらは止むなく、むくりと顔を地面から離した。


「……ほんと。すごいな、これ……。はぁぁぁぁぁ〜〜〜〜」


 据わった目でその惨状を眺め、せっかく吸った空気をため息と一緒に吐き出した。そのままだらりとお尻を地面に落として胡座あぐらをかく。


「起きちまったもんは仕方ねぇ、なんて……爺ちゃんも婆ちゃんもよく言ってたけんど、はぁぁ、どうしたもんかねぇ」


 辺り一面、黄ばんだ白色や茶色の布地が地面を隠していた。それほどの被害ともいえるし、また同時にそれほどの洗濯物の量だったともいえた。

 もうすぐ季節が変わるそんな時に、天気が良ければ出来るだけ洗って干したいと思うのはおいらだけではないはずである。そんな訳で、ベッドに掛ける布から水回りに使う手拭い、押入れに仕舞っていた厚手の羽織りなどなど、家にあるほとんどの布をすたこらせっせと洗濯していった。

 だから、それらを除いた使える布の数は言わずもがなである。

 今着ているおいらの薄手の服だけでは、これから来る冬なんて到底乗り切れない。

 残念ながら、仕方ないの一言では片付けられそうになかった。

 眺めながら顔に着いた土を乱暴に拭う。すると、拭った掌から伝わる感触に違和感を覚えて「あ」と思い出しながら、恐る恐る視線を落とした。


「…………」


 拭った掌には、払った土と一緒にキラキラ光る糸が引いていた。

 顔にニーナの鼻水を付けたままだったのだ。


「………………」


 口を噤んでおいらはすっと立ち上がった。

 そのまま一直線に前へと歩き出す。

 散らかる足元など目もくれず足を動かして、おいらは本来の目的地である水汲み場に頭を突っ込んだ。


ばぼぼべんばぶぶべあのおてんば娘わっばいべべぇごぼやっちゃいけねぇことばびばばっばやりやがったああああああああああああああああああ!!!」


 水に顔を沈めながら叫びを上げ、そのまま両手も突っ込んでやけくそに顔を洗った。


「ぶはっつ!!!はあ゛はあ、はぁ……はぁ、はぁ。さぁて、ニィーナァーア?ゴブリンのお兄さんと鬼ごっこしようかぁああ???」


 勢いよく顔を上げたおいらは、びちゃびちゃの顔を拭わないまま振り返り、先ほどから視線を感じていた方に向かって語りかけた。すると、半拍置いて家畜小屋のわきでがさりッと音がする。


「そこに、いるん、だね?今行くから、大人しく、してるんだよ??」


 ガササササッ!


「逃ぃがすかぁああああああああああ!!!!!」


 と、威勢が良かったのもそこまでのこと。


「ぬああああああああああ〜〜、はぁはぁ、ゼェはあ、はあ〜っくそ!息がもう、はぁぁぁぁぁっ、ッだ、……もう、もたん」


 林中、草花そうかを掻き分けて、川辺の岸を飛び越えたなら崖を登って沢から沢へと追いかけ回し、しかしてその甲斐も無く、一度もニーナに触れること叶わず、おいらはバテてしまっていた。

 膝に手をついて前のめりになって肩で息をする。とてもじゃないが、これではこっちの心臓が持たない。


「ほんとに、……ぁあ゛、ほんとうにっ、人の子か?!猿でも、こんな……」


 ーーーありえない。

 そう言おうとしたのだが、膝についていた手が汗で滑り、がくっと上半身がつんのめって言葉が続かなかった。おいらはそのまま体勢を崩して地面に手を着き、倒れる様に座り込んだ。

 鬼ごっこをしようなどと持ち掛けておきながら、なんと情けない。

 おいらはニーナを追い詰めることすら出来ないでいた。

 四足動物よろしく、ニーナはその真似をして素早く地を駆っていき、猿の如く木々を飛び移っていった。

 さらに道中では、おいらが野生動物を捕獲するために仕掛けていた罠を、感の良さなのか、察知して上手く躱していっていたのだ。少しの足止めすら出来ない。

 そして、その度においらは驚きと共に頭に血が上り向きになっていった。残りの体力に気を配れなかったのはその為であった。

 しかし、どう考えたって幼い子供ーーーいや大人でさえありえない身体能力をニーナは発揮していた。

 野生幼女は伊達ではないということなのだろうか。確かに一見すれば、順応しきっているように目に映る。危険察知能力に長け、その身軽さを生かして鬱蒼とした林中を飛び回り、敵を寄せ付けない。そして、時にはその身ひとつで罠も使わず狩りをこなす。よくよく考えてみれば、彼女は十分過ぎるくらいに生きる為の手段を得ているのではないだろうか。

 癪ではあるが、熊の教育の賜物ということなのだろう。

 ーーーでは果たして、今更人の知恵が必要だろうか?

 額から滴り落ちる汗が冷たく感じた。

 見上げる木々の合間に青空が切り取られたようにあって、そこを編隊を組んだ鳥が過ぎ去っていく。

(何を必死になってるんだ)

 口を大きく開けて荒く息をしていたはずなのに、それはいつの間にか収まっていた。

 血がのぼっていた頭は既に冷え、おいらはその場から立ち上がる。


「帰ろう」


 いつもは気にならない虫や鳥の鳴き声が嫌に耳に届き、おいらはそれから逃げる様に足を早めていった。



 〜〜〜〜〜◆〜〜〜〜〜◆〜〜〜〜〜◆〜〜〜〜〜



 思い上がりもはなはだしい。

 いや、甚だ以ってお節介も良いところだ。

 どうやらおいらはまた、一人で暴走していたようである。


「ゴブリン如きが誰かの役に立つ。そんなことありえない。役に立つはずもなく、できることもない。とんだ自信過剰だべ、まったく」


 何してんだと言葉を吐き捨てた。


「ニーナの育て親にでもなるつもりだったのかね、おいらは」


 誰が頼んできたわけでもなし。ましてや願われたわけでもなし。

 使命感なんて体のいい思い込み。

 お節介焼きという自身の悪癖の所為で要らぬ労力を使っていたことに、ようやく気が付いたのだ。

 与えるものはあっても、教えるものは間に合っていたのだ。


「……」


 ニーナには熊がいて、熊は彼女を守りながら、生きる術を教えた。

 無人の深林は自然が手付かずで、ありふれた自然現象がふとした瞬間に脅威へと変貌する。だからこそ、ニーナにはここでの生活が向いていないと思っていたし、人の子は人の集まる場所で暮らすべきだと考えていた。

 しかし、その予想はおいらのニーナに対する単なる過小評価にしか過ぎず、実際はとても逞しく順応していることが実際に見て分かった。

 正直、ニーナと二人だけで家の外を駆け回るのが初めてだった為に、その逞しさに今まで気が付かなかっただけなのだが。

 であれば真実はもっと単純だ。ニーナが病に倒れたのはあの時がたまたまで、好かれているのは『おいら』ではなく『ご飯』だった、ということ。

 自分がどうにかしてやらなければ、とか。

 自分が必要にされている、とか。

 そんなのは手前勝手な考えでしかなく、熊からの要望も指示も言付けも何もない。当然、ニーナの意思もなかった。

 単なる自己満足からなる一種の陶酔であると分かってしまった。


「おいらはただの給餌係だったって話だ。親でもないおいらが人の子に無理矢理物事を教えるなんてどうかしてたんだ」


 そう口にした瞬間、途方もない虚しさが胸の内に広がってきた。

 一緒に暮らし始めて家族にでもなったつもりだったのだろうか。

 ふっ、と乾いた笑いが口の端から出る。

 それはなんとも恐れ多い勘違いだ。

 自分ばかりが手を繋いで握っていただけなのに、自分はあの子に必要とされていると、自分の手が握り返されているのだと思い込んでいたのだ。

 きっと、第三者が見たら声を大にして笑うだろう。

 彼女は既に生き方を身につけている。他ならない、親代わりの熊から。

 人が人らしくなんて、亜人種のゴブリンが言うことじゃないんだ。その証拠に教えたことの殆どは、あまり進歩していなかった。立って歩くことや、食器などの道具の使い方にご飯の食べ方、それと言葉の習得。そして、服の代わりに麻布を身に纏うこと。

 ニーナが望んでいないにも関わらず、それを強制してしまったがために今回の事が起こったのである。

 ニーナを捕まえてその誤ちについて言って聞かせようと思ったが、それも叶わなかった。それは、はなから彼女がおいらの言葉を必要としていないあらわれではないか。

 おいらから教えることなんて、最初から何もなかったのだ。


 ーーーだから、もうやめにしよう。


 透明度を失ったカサパチの身が煮立ったスープの中で崩れていった。

 灰汁を掬っていた柄杓はいつの間にかその役目を果たさず、いつまでも沸騰するスープの水面から動かないでいる。泡立ったスープが鍋の縁から少量吹きこぼれ、底の方へ伝ってジュウっと音を立てたところでおいらはようやく手元に意識を戻した。

 火を弱めるためにビントの葉を放り込むように火元に入れる。灰と一緒に火の子が舞ったが別段気にしない。

 柄杓で灰汁を取り終えたところで味見をし、調味料を適宜てきぎ入れて調節をしていく。


「こんなもんだべ」


 厚手の手袋をして鍋を火から上げ、器にカサパチと野菜満点のスープを取り分けていく。そして、次に小さなフライパンを取り出し、そこに香草に包んだカサパチの切り身を並べていった。


「刺身で食べれなくなった分、その他の調理法で味合わないと」


 どんな調理をしても美味しいのがカサパチの長所である。香草に包まれた切り身はフライパンから伝わる熱を受けると、すぐさま香ばしい匂いを漂わせてきた。

 食欲を刺激されながら、時折、悩み事に思考を奪われながら調理を終えると外は既に真っ暗になっていた。帰ってきてから、散らかった庭やら水汲み場やら菜園に繋がる水路を掃除したりと、料理以外にいろいろしていたから時間が経って当然と言えば当然である。日が落ち切って間もない頃だろうが、それでも日が落ちるのが早くなったとおいらは雲間から覗く星を見ながら思った。

 そのままおいらは一人、晩ご飯を摂っていった。

 家畜小屋の戸締りをし、調理で使い切った水を汲みに行ったりと母家の外に出たが、ニーナも熊もどこにも見当たらなかった。試しに声を掛けてみたが返事がなかったため、こうするに至ったのである。


「まあまあかな」


 スープを行儀悪く啜って、口から漏れたのはそんな言葉だった。

 久々の一人で摂る食事と期待していた旬の食材カサパチ。

 お椀を持って肘を着く手は誰に向けて掲げているものか、口から離れてからずっと行き先を失っていた。

 視線は天井から静かにぶら下がるランタンへと向いていた。

 何を思って考えるでもなくしばらくそうしてからおいらは食事を再開した。

 食べ終えてから鍋の中で熱が引いていったスープを保存用の容器に移し替えて、切り身や炊き込みご飯を詰めた容器と一緒に床下の食料庫へと仕舞い込んだ。


「……」


 テーブルには未だにニーナの分の晩ご飯が残っている。

 帰ってくるならそろそろ、だ。

 その感は当たり、遠くの方からニーナの声と熊の足音が聞こえてきた。

 近く音に扉を見やればこちらを覗き見るニーナがいた。

 ニーナを招き入れ、座るのを確認すると、おいらは先に寝室へと足を向けた。

 その日の日記には釣りをしたことだけしか書けなかった。




 ーーー◆ーーー◆ーーー◆ーーー◆ーーー◆ーーー

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る