ニーナの鬱憤

ーーー◆ーーー◆ーーー◆ーーー◆ーーー◆ーーー




 その全貌が見えた途端、おいらの足はつまづいた様によろけて止まった。


「……おっと……」


 その光景は、予想していたよりも遥かに酷い。

 だからだろうか、そんな言葉が口から漏れ出ていた。


「………」


 とりあえず、おいらは目蓋を閉じ視界から入る情報を遮断することにする。

 そんなはずあるわけがない。


「すぅぅーーーーーーーーーーぅ………。うん、うゔんっ!……ああ、ぁぁ」


 すぅっと細い息を長く吐きながら眉間を摘んでぐりぐりと揉むと、今のは見間違いだったと自分に言い聞かせるように小さく唸った。それでも目にした光景が目蓋の裏に映るようにして思い出され……いやいや、ないない。知らない見てない存在しない。

 頭を振って数秒前の記憶を彼方へと振り払う。


「流石にないない。まったく、疲れているんだべ」


 独りでやれやれぶつくさ言いながらもう一度眉間みけんや目のまわりを揉んでいき、ついでに首と肩を回して解していく。

 そうして自らのコンディションを整えると、ある種の覚悟を決め、再度それに目を向けた。


「…………。うん。そらそうだわな、現実だよな。知ってました……」


 瞬間、おいらは勢いよく地面に膝を着いて項垂うなだれた。

 そして、その惨憺たる光景にーーー。


「どうすんだべ、これぇえ〜〜〜ぇ!!!!」


 おいらは頭を抱えて声を上げるのだった。



〜〜〜〜〜◆〜〜〜〜〜◆〜〜〜〜〜◆〜〜〜〜〜



 どうしておいらが絶叫をする羽目になったのかと言うと、その発端は少し前に遡る。

 池の辺りで久々に釣りをしていたおいらは、昼を少し過ぎた時間に家に帰ってきた。


「ニーナ〜〜、熊〜〜、帰ったぞ〜お」


 もうすっかり呼び慣れた居候いそうろう、もとい同居人たちの名前を口にしながらおいらは自分の帰りを知らせた。

 え、熊の名前はかって?ははは、皆まで申すな。奴は熊だ。上から下まで野生一色の獰猛な獣である。その獰猛さは計り知れないどころか魔法なんてものまで使うまである。

 仮にタワシなんて見た目と色で何となく思い浮かんだ適当な呼び名を口にしようものなら、目にも止まらぬ速さで腹に一撃を食らった後、痛みで地面に蹲り呻いているところを熊の全体重を以ってのしかかられるのがオチである。

 よって、熊は熊なのである。みんなにはタワシと呼ぶのは心の中だけにすることを強くお勧めする。

 だが実際、タワシなんて名を付けたとしても、あの熊は掃除用具のたわしほどの実用的な性能など持ち合わせていない。家畜小屋のど真ん中を占領し、気を使うことなく我が家の食糧を平らげてゆく奴の姿には、共同生活に於ける持ちつ持たれつというその影はどこにもない。時折、狩りをしてきて獲物を寄越してくれることもあるにはあるのだが、いかんせんよだれでべっちょべちょで鮮度が非常に悪かった。おまけにタワシと命名してはみたものの、奴は浴槽の汚れを取るどころか、薄茶色の毛を至る所に付着させて掃除の手間を増やす始末。名は体を表すと言うのであれば、むしろ、毛達磨けだるまと命名した方が幾分しっくりくるのではないかと思ってしまう。

 しかし、もうそれもこれも今更である。住み着いてしまったものは仕方ないし、熊がニーナのことを大切に思っていることは確かなのでそれはそれで頼もしいところもある。まあ、何がとは特にないのだが、幼い子供のそばに片時も離れないボディーガードがいるとすれば幾分心強い。

 そんな益体の無いことを思いながら釣り道具を適当な所へ下ろして、今日の収穫を担ぎ直した。

 肩に担いだ長い枝には釣った魚がのぼりの様に刺さっていて、ざっと数えて十匹以上。大漁である。

 赤い鱗がなんとも鮮やかなこの魚は、カサパチという。

 カサパチは、身が引き締まりそれでいて脂がしっかりと乗っているため、煮ても焼いてもスープの出汁にしても旨い、この季節に漁れる絶品万能食材である。

 なので、今日はこのカサパチを主体にした料理を作ろうと、おいらはうきうきとした弾んだ足取りで帰ってきたのだった。


「お〜〜い、帰ったぞ〜〜」


 念のため、もう一度彼らを呼んでみる。しかし、おいらの呼び掛けに応える者は誰もいなかった。

 唯一聞こえるのは、隣で草をもしゃもしゃと咀嚼している牛の鼻息くらいのもの。今日も今日とて、家の周囲の雑草を根こそぎ胃袋に収めていっているようである。これで各所に糞を落としていかなければ庭の平和は安泰なのだが、流石にそこまで文句を言ったら乳を出してくれなくなるだろう。衛生管理はおいらの仕事ということである。

 鶏はというと、そんな牛の背中に三匹が仲良く乗って器用にバランスを取りながら寝ていた。

 そんな光景を羨ましく思いながら辺りを見渡すが、やはり彼らの姿は見当たらなかった。


「昼ごはんに遅れちゃったから待ちきれなかったのかなぁ」


 共同生活をするようになってからおいらはベストプレイスに行ってご飯を食べることをしなくなり、毎度三食、家で摂るようになっていた。

 そうするようにしたのは幼いニーナの食生活と人らしいテーブルマナーを教えようと思ったからである。

 そして何より第一に、出来立ての料理を食べてもらいたいというのが実のところ本音であった。料理中にまだかまだかとせがまれてしまえば、それを拒めるはずもないというもの。

 その甲斐あってか、ニーナは出会った時よりも顔色が良くなり、骨格の凹凸が目立っていた容姿は今ではすっかり健康的な子供らしくふっくらとしている。

 しかし、そうして胃袋を掴んだはずのニーナはどこへやら。

 一向に姿を現さない彼らにもしかしてと、とある不安が頭を過ぎる。


「狩りに行ってるんだろうか……」


 熊とニーナが姿を消すと大抵、川か池で水遊びをしてきてずぶ濡れで帰ってくるか、それとも狩りをして二人仲良く口元を血みどろにして帰ってくるかのどちらかであった。

 お昼ご飯を食べれずお腹を空かせた彼らが菜園を襲撃していないとすれば、これはおそらく後者が濃厚である可能性が高い。


「まぁ、そろそろ冬も近づいてきて水が冷たくなってきてるから、水遊びじゃない方が幸いだけんど。……人間の女の子らしくはないべなぁ」


 そう口にした先からおいらは、また一際大きく重たい溜め息を吐いた。肩が重く感じるのは決して担いでいる魚が重いからではないだろう。

 釣りをしていた時まであんなに晴れていたおいらの気分は、母家の扉を潜る時には既に暗雲が立ち込めていた。

 そうして困り顔のままおいらは台所にカサパチを刺した枝を下ろすと、とりあえず下処理をしようとテキパキと手を動かしていく。だが、頭の中はニーナのことで一杯だった。

 ニーナには人間らしい生活を身につけさせたい、とおいらは勝手ながら思っている。

 ーーー言葉を操り、知識を取り込み、知恵を働かせる。それが人間であり、世界で最も数が多く、地位の高い人種ひとしゅの生き方だ。

 その人種のニーナは、今どうしてか深林にいる。

 なぜだ?

 捨てられたのか?迷い込んだのか?それとも、おいらのようにこの深林に親と住んでいた?深林に部族が居て、そこからはぐれた?

 想像力の乏しい頭でそれらを想像していくが、熊と出会い、そして今に至るまでの経緯がとんと繋げられなかった。

 今日まで何度もその理由をおいらはあれやこれやと考えていたが、こんな風に結局、いつもしっくりくる答えが見つからないでいた。

 しかし、一つはっきりすることはあった。

 それは、おいらの様に自らの意思で深林に好き好んで住んでいる訳ではないこと、だ。

 見た目が4〜6才ほどのはずなのにこの状況を当たり前の様に受け入れている。街にいる子供であれば、自分の知っている家に親を求めて帰りたいと願うはずだ。しかし、それがない。

 おそらくニーナは、物心ついた時にはこの深林にいるのが普通だったのだろう。自分がいかに危険な所にいるという判断基準がなく、あるがままを受け入れているに過ぎないのだ。人が持ち得る知識を全く持たず、熊を頼りに本能だけで生きているのだ。

 純粋にして無知。そして、野生的。

 それはおいらの知る人種のどれにも当てはまりはしない。

 であれば。

 あるべき物はあるところへ。

 ニーナを正しい道へと導く必要がある。

 だから、おいらはニーナを人の住む町へ帰してあげたいのだ。

 その為には人間の社会で生きていく事を目標にして生活をし、色々なことを覚え、やがてその内に不要なものを忘れていかなければならない。だからこそ、狩りなんて事はなるべくして欲しくないのである。

 だがしかし、そんな事を熱く考えながらも自分は昼食の時間を過ぎてまで釣りに没頭していたのだから、お腹を空かせた彼らを責められるはずもない。


「んあれ?」


 独りでに肩を竦ませると、おいらはある違和感に声を漏らした。

 台所でカサパチを枝から一匹ずつ綺麗に抜き取って腹わたを取り除いた後、いざカサパチを水で洗おうとしたのだが、水を入れていた壺の中で釈がカツンと音を立てたのだ。


「ありま、水が足りない」


 もしやと思い湧き水を入れておくための壺の中を覗くと、案の定、魚を洗う分の水はおろか、料理をする分の水も残っていなかった。


「そう言えば、朝に洗濯をした時についでに水を汲んでくるの忘れてた。ぱっぱと汲んでこよう」


 魚は鮮度が大事である。

 胸に抱える程度の樽を持つと、おいらは家畜小屋の裏手にある水汲み場まで一走りする事にした。

 実際に距離と言うほど遠くなく、すぐにそこへ辿り着くことができる、のだがーーー。


「くしゅんっ!!」


 しかし、おいらは母家を出て菜園と家畜小屋の間を通り抜けようとしたところで、微かに聞こえたそれが気になり、その方向へと足を向けた。


「はぁ、………ぁ。は、っくしゅん!」


 聞き間違いかと俄かに疑いながら進むと、その途中で今度こそはっきりと何者かのくしゃみを耳にした。か細い小さな声で奏でられるくしゃみなど、思い当たる相手は一人しかいない。


「こんな所で何してんだべ?」


 そうして、おいらは家畜小屋の扉を開けると、予想通りそこにニーナの姿を見つけた。

 彼女は相変わらず素っ裸で、藁が敷かれたその上に両手をついてぺたんと座り込んでいる。

 それだけならどうしたこともないのだが、ニーナはくしゃみが止まらないらしく、何度も背中と頭を上下させてはずずーーっと鼻を啜っていた。おまけにたんでも絡んでいるのか唾まで吐いている。

 明らかに様子がおかしかった。


「に、ニーナ、大丈夫か?どうしたんだっ!?」


 咄嗟に駆け寄りその小さな肩を掴むと、そっとおいらの方に顔を向かせた。手に伝わってくるニーナのか細い肩は熱く、向き合った彼女の顔は目と鼻が真っ赤になっていて涙と鼻水と涎でべちょべちょだった。

 一見、風邪を引いている様に思ったが、おいらは先ほどニーナが唾を吐いていたことが気になった。それが何か重大な病気の現れなのではないかと、嫌な予感を頭によぎらせた。


「また裸でそんな所にうずくまってからに。だから風邪引くっていつも言ってるのに。服着なきゃだめだべ」

「ううん、はぁ……はあっ、くしゅんっ!!!」


 ニーナの様子に内心焦っているせいか、つい叱言こごとが口を突いて出てしまう。しかし、ニーナはそれが分かっているのかいないのか煩わしそうに首を横に振ると、次の瞬間、不意に込み上げてきたそれを首を傾げるおいらに向き直って、盛大に放ってきた。


「ーーー?!」


 ニーナの返事を待っていたおいらは「えっ?」と声を上げる間も無く、まるで頭突きをするように繰り出されたそれを見事、顔面で受け止めた。すると、瞬時に肌からじっとりねっとりとした不快感が伝わってきた。


「……ぅうぉっつ、ニーナさん、ごめんちゃんと心配してるよ?悪かったからくしゃみは違うとこ向いてしような」


 一瞬にしてニーナの鼻水やら唾液やらでべちょべちょなったおいらは、彼女の肩から手を離して自分の顔を拭った。

 相手の不意を突いたゼロ距離攻撃を仕掛けてくるとは、なんて恐ろしい幼女だ。これを仕込んだ奴はろくな者じゃない。くそあの熊、今日は飯抜きにしてやる。ああ目が痛い、口にもなんか入ってる……。

 違和感を覚えた口に自分の指を突っ込んでそれを探り当てる。指先で掴んでそのままつーーぅっと口の外に引っ張り出す。しかし、思いのほか長いのか、中々その全てが出てこなかった。


「なんだろ、これ。やけに長いな……。茶色くて波打ってて、……細長い茶色の、……!!虫か!!?」


 目の焦点が合うそこまで引っ張り出した途端、想像があるものに思い至り、おいらは摘んだ手を勢いよく振り抜いた。


「うわ、うえっ!ぶえぇええええぇぇ!……ペッペッ!!もうなんだべ、なんでこんなものが口に!?ニーナ、一体何したんよ!?」

「くしゅんっ、くっしゅんっ!ムンタあぁ、くっしゅん!ムンタぁ〜、くしゅんくしゅんっ!」


 動転しながら口を腕で乱暴に拭うと、自分を呼ぶニーナの元へ再び向き直る。


「女の子なんだからもっとお淑やかにしなきゃお嫁にいけないぞ?」


 まるで泣いているように目と鼻を真っ赤にしているその顔は、本当の親でなくとも保護欲をくすぐられる。しかしながら、得体の知れない物を吹き掛けられては文句の一つも出るというもの。


「ム〜ンタ〜ぁっくしゅん!」

「……はいはい」


 まずはとにかく。

 べちょべちょてかてかしている顔を拭ってあげなければなるまい。

 そう思って、ズボンから手拭てぬぐいを取り出し、ニーナの顔を優しく拭いてやる。

 うるさそうにくすぐったそうに目と口を閉じるニーナは先ほどの印象とは違い、そこまで酷い症状ではないようだ。時折漏れ出る笑い声が耳をくすぐり、おいらは少し安堵する。だが、何が大事に至るか分からないので早く母家のベッドで休ませてあげるべきだろう。


「……やっと終わった」


 拭いた側から鼻水を垂らすニーナと悪戦苦闘を繰り広げ、おいらはようやく綺麗にし終えてため息を吐いた。ニーナがじっとしていないお陰で不覚にも顔面に二発もくしゃみを頂いてしまった。

 しかし生憎、手持ちの手拭に自分の顔を拭く余裕はないようである。これまでにないくらい湿りきった手拭を折り畳んでいった。

 良い子のみんなはくしゃみをする時は人のいない方へ顔を逸らして、口元を手で覆いましょう!これ大事!じゃないと相手がおいらみたいになるからね。


「あれ?ニーナ、髪にもなんかついてるぞ」


 ニーナの薄茶色の髪の毛に紛れるようにして細い茶色の糸がいくつも絡まっていた。ニーナのことだ。小屋の中を駆け回って藁束にでも潜ったんだろう……。


「いや、藁に糸は混じらんべ」


 自身の考えに無意識にそう口にして、髪から引っこ抜いた糸を睨め付ける。

 家畜小屋にないはずの茶色の糸に、何故だかおいらは見覚えがある気がしてふと後ろに振り返った。

 視線の先には、よれよれに波打っている茶色の長い『ソレ』があった。ニーナがくしゃみを放った際においらの口に侵入してきた虫だ。しかし、ソレが虫でも何でもないことをおいらはようやく気が付いた。

 目に映るのは、今おいらが指につまんでいる物と同じ材質でできた糸だった。どうやらあの時、色や長さから虫だと勝手に思い込んでしまったらしかった。

 だが、それが分かったところでどうしてこの糸が気になったのか、てんで分からなかった。

 一瞬、生まれた違和感はなんだったのだろう。


「んーー。なあ、ニーナ?これ、どこでこんなん付けてきたんだべ?って、いないし!?」


 一瞬振り向いただけだったのに、振り返るとそこに座り込んでいたはずのニーナの姿はなく、部屋を見渡してもどこにも見当たらなかった。

(……さては、良からぬことをしたな)

 体調が悪いと思っていた幼女の野生本能は未だ健在らしい。

 身を潜めでもしているのか、はたまた家畜小屋を離れてどこかに走って行ったのか、あれだけ止まらなかったくしゃみは一つとして聞こえてこない。


「ああ〜、もうなんだべ。風邪の引き始めこそ肝心なのに逃げることないでしょうに」


 おいらはすっかり水を汲みに来たことを忘れて、姿を消した小さな病人兼愉快犯を探すべく膝を立てて立ち上がろうとした。しかし、その寸前にニーナの座っていた場所が視界に入り、その藁の中に奇妙な物を見つけた。


「……なんだこれ。どうしてこんなものが」


 おいらは浮かした腰をまた下ろし、徐に藁の中に手を突っ込んだ。そして、掴んだ物を引っ張りだしてみるとなんとも不恰好な布が出てきた。

 その布は先の端々がズタズタにほつれており、無理矢理引き裂いたと思われる跡が所々に見受けられた。その証拠に千切れた断片が藁の中から更に出てきた。


「うわぁ、もったいない。熊の奴、これどっから持ってきたんだ?まさか、うちのじゃないよな?……いや、うちのしかあり得ないわ……、ん?」


 見るも無残な麻布を両手で広げながらそこまで言って、おいらは唐突に既視感を感じた。

(なんだ、今の?布を広げたこの感じか?)

 眉間に皺が寄っていく。

 熊の寝床に引き裂かれた麻布。

 無理矢理に引き裂かれ千切れたそれは端々がほつれている。

 その先端は先ほどまでニーナの髪に付着していた物によく似ている。そう言えば拭き取るのが精一杯で忘れていたが、ニーナの顔を拭き取った手拭にもその更に細かな繊維が付いていた。

(ああそうか、この繊維がニーナの鼻に入ってくしゃみが止まらなかったのか。そりゃあ、鼻水ずるずるになるわけだ)

 おいらもたまにやってしまうのだ。古い布で顔を拭いたりすると、その繊維が顔中にこびりついて口や鼻に入ってきてしまい、くしゃみと鼻水が止まらなくなってしまうのである。


「いやぁ、そっかそっか。ニーナは風邪とか変な病気にかかったわけじゃないんだな」


 そうして納得して腕を組み、うんうんよかったと独り言を言う。ほんと最近、更に独り言が増えた気がする。やだね、歳かね。


「でも、なんだったんだべな。さっき、こう布を広げた時に変な違和感が………ぁーーー」


 そして再び言いながら麻布を広げるとおいらは今度こそ、それに気付くことに成功した。そして、同時に冷や汗が身体中から吹き出した。

 よく見ればそれは、繊維が散り散りになるほど古くはなくーーー。

 よく見ればそれは、数日前にほつれてできた穴を塞いだ後がありーーー。

 よく思い出してみるとそれは、今朝物干し竿に干した記憶がありーーー。

 よくよく観察してみれば、これニーナの歯形じゃね……。


「ーーー!」


 おいらはそれを握り締めたまま、唐突に立ち上がり走り出した。

 嫌な予感がした。それもほぼ手遅れだと分かるような予感が。

(まずいまずいまずいまずい!)

 短い距離の筈なのに、それがどこまでも遠く感じてならなかった。前へと踏み出す一歩一歩が、なぜか重い。

 本当は心のどこかでそこに行きたくないと思ってしまっているのだろうか。

 そこに行くべきではない、と。

 しかし、そう思ってしまうのも無理もない。

 当然だ。

 もし、おいらが想像している光景が現実として目に飛び込んできてしまった場合、おそらくおいらは正気を保っていられない。それ故に、おいらの体は自身を守るためにそこへ行かせまいと無意識に警告しているのだろう。

 この先は危険だと。行ってはいけないと。

 いやだがしかし、それでもおいらは足を止める事ができなかった。

 自制心を上回るほどの焦燥がおいらの背中を押し、思い過ごしであって欲しいと願う希望的観測が止まろうとする足を突き動かしていった。

 目的地は家畜小屋の裏手だ。実際にはほんの数歩数える程度の道のりしかない。

 視線の先に映るは小動物一匹分開かれた引き戸。斜めに光が差し込むその先はここからでははっきり見えない。

 永遠に辿り着けない場所のように錯覚していた目的地は、すぐ先にある。

 躊躇したら、その先を見るのが嫌で引き返してしまいかねない。そう思いおいらは、走る勢いを緩めなかった。

 戸の隙間に手を引っ掛けて、半ばなげやりに開け放つ。

 そして、ようやく。

 おいらは、そこに足を踏み入れた。

 家畜小屋の裏手にあり、且つ菜園のすぐ近くにあるーーー



 ーーー洗濯物を干したその場所へ。



 身体の勢いをそのままに、おいらは目に飛び込んできた光景に足元が疎かになる。それはおいらの想像していた以上の事態が広がっていたからに他ならない。

 目に飛び込んできたのは、視界一杯に広がる茶色やら白やらの散り散りになった平布の破片が舞い転がる景色。

 予想も無しに何も知らないでここへ辿り着いていれば、その破片たちが平布ではなく、枯葉か雪だと見間違えていただろう。

 散らかる地面から視線を少しあげれば、そこには、おいらの服だけが残された物干し竿が寂しく揺れていた。片方の先を地面に落とした物干し竿に掛かるおいらの服は、まるで白旗を上げている様だった。

 なるほど、分かり易い。それ以外が全てこれになったのね……。



〜〜〜〜〜◆〜〜〜〜〜◆〜〜〜〜〜◆〜〜〜〜〜



 そうして、おいらは現実逃避をあらかたしてから絶叫するに至ったのである。

(と言うか、なにあれ。おいらの服だけ残してあるのは、慈悲だろうか?それとも次はお前の番だぞと言う何らかのメッセージなのだろうか?)

 心理的にも獲物を追い詰めるとか、なにそれ?やだ天才的に恐ろしい子!

 恐怖と絶望に見舞われながら、おいらはしばらく泥の様に項垂れ、その場から動けなかった。

 本来であれば、水汲み場があって、そこから溢れ出た水が菜園に流れていき、その少し離れた所に洗濯物を干す竿が掛けられていた。そよ風を受けては太陽の光を浴びながら揺れている、そんな裏庭のはずだったのだが。

(まさか、こんな惨事を招くことになるなんて……。そんなに布を巻かれるのが嫌だったんだなぁ……。それでもさぁ………、これはあんまりだべ)



 続く……

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