暗示を解かなければ


 パチンという音がやけに響いたので、アドルフは自室に戻ってみた。


 窓際の椅子に腰掛けたシリオが、おのれの指先を見つめている。


 どうやら、彼が鳴らしたようだ。


「どうした?」

と訊くと、


「いえ。

 鳴らしたら、未悠が現れるかなー、と思って」

とぼんやりと言うシリオに、


「……そうか」

とだけ言って、アドルフは部屋を出た。


「なんだったんです? アドルフ様」

とヤンが心配そうに訊いてくる。


「いや、なんでもないと思うが……」

と答えながら、閉まった扉を振り返った。


「まあ、今、未悠に戻られても困るかな。

 シリオが未悠と会う前に、シリオの暗示を解かなければな」

と言うと、ヤンは苦笑いして、


「あれ、暗示なのですかね?」

と扉を振り返る。


「未悠が居なくなって暇を持て余しているところに、タモンに好きなんじゃないかと言われたから、そんな気になってるだけだ。


 ちょっと出てくる」


 え? 何処にですか? と言うヤンに、

「ちょっとその辺にだ」

と言うと、


「では、私もついて参ります」

とヤンは言う。


「いや、ひとりで出かけたいのだ」

と言ったのだが、物騒ですよ、と言って、押し切ろうとする。


「第一、アドルフ様がいらっしゃらないのに、私が此処に居てもしょうがないではないですか。

 私、シリオ様を守っているみたいになってしまいますっ」

と必死に訴えてくるヤンに、


「いいじゃないか。

 ほうけたシリオを守ってやれ、すぐに戻る」


 みなには上手く誤魔化しておけよ、と言って、こっそり城を出ると、裏手に回り、未悠には通るなと言ったあの生垣の隙間を潜った。





 パチン……と音がした。


 森に響いたその音に、辺りを見回した駿は、視線を芝桜の前に戻し、息を呑む。


「未悠……?」


 先程まで、ぼんやりそこに立っていた未悠の姿が消えていた。




 此処は何処だ? と思いながら、未悠は、何処か懐かしい感じるのする、その涼やかな空気を吸った。


 頭の上には青空。

 森のそこだけ、ぽっかり木々が途切れ、足許には花咲き乱れる原っぱが広がっている。


 そこへその美しい花々を背負ったような美しい王子が歩いて、現れた。


 どうやら、まだ夢を見ているようだ……。


 そう思いながら、未悠は、その王子を見上げる。


 王子はちょっと困った顔をしていた。


 だから、未悠もちょっと困った顔をしてみせる。


「……馬、どうしたんですか?」

と問うと、


「ヤンに見咎みとがめられてな。

 歩いて、そっと抜け出してきた」


 そう花よりも美しいその王子は、眉をひそめて言ってきた。


 その如何にも王子然とした姿に、未悠は笑ってしまう。


 やはり、いきなりこの世界に飛ぶと違和感あるな、と。


 さっきまで、弁当の手配がどうの、焼き鯖定食や煮付けがどうのと言っていたのに、王子様が花畑を歩いてくるとか。


 そんなことを考え、笑っている未悠に、アドルフが言ってきた。


「なんだ、お前は。

 またそんな破廉恥はれんちな格好をして」


 未悠の、身体にぴたりとした洋服が、相変わらず彼らの目には、そんな風に見えるようだった。


 やっぱり私たちの感覚はずれている。


 でも、なんでだろうな。

 この人と居る方が落ち着くのは――。


「なに笑ってるんだ?」

とアドルフに言われ、いえいえ、とまた笑う。


「ところで、なんで此処に居たんですか?

 あ、わかった。


 私が居なくなって寂しくて、ずっと此処をウロウロしてたとか」

と言ってやると、アドルフは澄ました顔で言ってきた。


「いや、今、たまたま来ただけだ。


 なに笑ってるんだ。


 ……本当に、たまたまだ。


 日に何度も覗きに来たりはしてないからなっ」


 そうムキになって言ってくる。

 そんなアドルフに未悠は言った。


「そうなんですか? 残念です。

 私は結構、何度も思い出してましたよ、貴方のこと」


 素直にそう白状してやると、アドルフは沈黙する。


 未悠が笑ったまま見上げていると、

「……そうか」

とだけ言ったアドルフはそのまま城へ引き返そうとする。


「……そうなんです」

と言って、未悠は少し笑い、そのまま、二人で歩いていった。






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