9 絶望の理由(参)
「話しには聞いてたけれど……佐久間くんのお家って広いんだねえ」
大学の同じゼミに通う知人、佐久間洋二くんのお家にお邪魔させてもらった私の口からは、感嘆の溜め息と共にそんな感想が漏れ出した。
白と黒でシックに統一されたお洒落な部屋は、ダイニングだけで私の暮らす1Kがすっぽりと入ってしまいそうだ。
「ははっ、まあね。両親が医者な上に、僕は気ままな三男坊だから」
あけすけな自慢に、どう返答したものか分からず曖昧に笑い返す。お医者様の家系の三男で、ご両親からかなりの額を援助をして貰ってるって噂は聞いてたけど……まさか独り暮らしなのに、こんな立派なお部屋に住んでいるなんて。
学生の独り暮らしなのに2DK。しかも防音まで充実というその豪華な間取りは、独り暮らし=ワンルームか1Kというイメージの染みついた貧乏人の私にとっては、実に羨ましい限りだった。
「さてと……じゃあ僕はちょっと隣の部屋で準備をするから、天津さんは適当に座っておいてくれる? 冷蔵庫の飲み物、好きなの飲んでていいから」
「あ、うん、ありがとー。じゃあお言葉に甘えまして――」
内心で「やった」と呟いて、はしたないと思われない程度に小走りで冷蔵庫に向かう。
もう毎年のことだけど、特に今年の夏の暑さは本当に異常だ。駅からここまで歩くだけでも、もうずいぶんと汗をかいてしまった。
独り暮らしにしては大きな冷蔵庫を開けると、扉の裏には500㎖ペットボトルに入れられたジュースが数種類。そして広々とした収納スペースの下二列には、ぎっしりと詰められたミネラルウォーターが十数本。
量的に考えて佐久間くんはミネラルウォーター派で、ジュースは来客用ということなのかもしれない。
まあ、それにしてもミネラルウォーターの本数が多い気がするけれど……人様の家の冷蔵庫事情をあれこれ詮索するのは良くないと、私はすぐに扉を閉じた。
「……あ、いつの間にか冷房が入ってる。佐久間くんは――まだ隣の部屋で準備中かな?」
如何にも高級そうなふかふかのソファーに腰を下ろし、頂いた炭酸系飲料を一口。口の中のシュワシュワとした爽快感を楽しみつつ、私は佐久間くんからされた『変わった頼み事』を思い返す。
『あの、天津さん。唐突で申し訳ないんだけど……今度僕が描こうと思ってる作品の、モデルになって貰えないかな?』
大学で佐久間くんからそう切り出されたときは、正直に言うと困惑した。
同じゼミに通っているとはいえ佐久間くんと私はそこまで親しいわけではなかったし、私以外に頼む人がいないほど、彼の交友関係は狭くいはずだった。
『今度の僕の作品のイメージに当て嵌まるの、天津さんだけなんだ。それなりのお礼はさせて貰うから』
しかし、そう言ってしつこく頼み込んでくる佐久間くんに、私は根負けした。
私が頼み事を断れない性格だというのもあるけど……モデルに当て嵌まるのは君しかいない、と。そうストレートに告げられ、悪い気がしなかったのも事実だ。
更に、佐久間くんが「芸術にしか興味のない変わり者」とゼミで噂されていたことも、私の決断を後押しした。
曰く、「大学一の美人がアプローチしてもなびかなかった」だとか、「どれだけ熱心に合コンに誘っても、『作品制作を進めたいから』と必ず断られる」だとか。そんな噂話を耳にしていなければ、流石の私も一人で男性の家を訪ねようとは思わなかっただろう。
……まあそれでも、改めて考えると少し不用心だったかな、とも思う。
もし桜ちゃんが――私を慕ってくれる可愛い従姉妹がこのことを知ったら、「お姉ちゃんは人が良すぎ!」と、お説教されていたに違いない。
「天津さん。準備が出来たから、こっちの部屋に来てもらっていい?」
「あ、はーい。今行きまーす」
隣の部屋から佐久間くんの呼び声。どうやら準備とやらが終わったらしい。
黒一色のテーブルの上に、飲みかけのペットボトルを置いて。立ち上がって移動した私が扉を開けると、そこには――
「――うわあ、すごい。いかにもクリエイターの部屋って感じで、羨ましいなあ」
「うん。なにを隠そう、僕もこの部屋はすごく気に入っていてね。大事な作品を創るときは、絶対にこの部屋で作業するって決めてるんだ」
その部屋は、一面がコンクリートに囲われた所謂「コンクリート打ちっぱなし」。『芸術家』佐久間洋二くん専用の作業スペースだった。
窓もなく、部屋の出入り口はこの扉しかない。乱雑に置かれたキャンパス立てや塗料缶、飛び散った色とりどりのペンキすら芸術に感じられるその空間は、なんとも言えない前衛的な魅力を放っていた。
「あ。あれが佐久間くんの言ってた、今度の作品の主役?」
――そして。
そんな部屋の中でも一際異彩を放つ『ソレ』に、私の意識は吸い寄せられる。
「そうだよ。流石にあれを大学に持っていくのは大変だからね。そういう理由もあって、今日は天津さんにわざわざ来てもらったってわけさ」
「ふーん……やっぱり佐久間くんって変わってるね。これを見て描く作品って、いったいどんな絵になるの?」
「……まあ、それは出来上がってからのお楽しみさ、きっと、天津さんも気に入ってくれると思う」
気に入ってくれる、と。私はその言葉に曖昧に頷き返す。
佐久間くんの作品の多くが、良く言えば「前衛的かつ独創的」、悪く言えば「常人には理解不能」であることを、私は知っていた。
佐久間くんの描く作品は、どこかホラーチックなものが多い。
例えば――『血の滴る肉塊で出来たウサギの絵』
例えば――『満面の笑みでこちらを見つめる、片腕が欠損した少女の肖像』
描いた本人曰く、「芸術に一番必要なのはギャップ。醜いもので可愛いモノを描き、美しいモノでグロテスクを表現するのが自分流」とのこと。
これで本人の気質が暗いものだったら、周囲に気味悪がれていたかもしれない。
けれどここまでの会話を聞いても分かるとおり、彼の性格は至って普通だ。コミュニケーション能力も高く、大学での友人数はきっと私より多いだろう。
「じゃあ早速だけど天津さん。『ソレ』に入ってもらえるかな?」
「う、うん。分かった」
近づいて『ソレ』を間近で見たとき、私が最初に感じた感情は――「カワイイ」だった。
きっと、桜ちゃんはこういうのが好きだろう。もっともそれを本人に直接言うと、「わ、私はこんな子供っぽいの好きじゃないもん」と、可愛らしく拗ねてしまいそうだけど。
「……一応言っておくけど、佐久間くん? 冷房は切ったりしないでね。そんなことされたら、私暑くて死んじゃうから」
『ソレ』に腕と脚を通しながら、私は冗談っぽく問い掛ける。
佐久間くんから返答はない。すでに頭が入る直前だったので、声が曇ってよく聞こえなかったのかもしれない。
――それにしても。
佐久間くんは一体、これに入った私を見てどんな作品を描くつもりなんだろう。
こんなの、わざわざ私に頼まなくても問題なさそうな気がするけれど。
まあ、今更そんなことを疑問に思っても、すでに報酬は受け取ってしまった。
意味はまったく分からないけれど、こんなことをするだけで三万円も貰えたのだ。あまり深いことは考えず、太っ腹な佐久間くんの指示に従わなくっちゃ。
「うん。やっぱりイメージ通りだ。天津さんにお願いして良かったよ」
丁度『ソレ』に入り終わったところで、背後から佐久間くんの声。
振り返るとそこには、なぜか大量のミネラルウォーターを両腕一杯に抱えながら、満面の笑みを浮かべる彼の姿。どうやら私が『ソレ』に入ろうとしている間に、リビングの冷蔵庫から取ってきたらしい。
「……? 佐久間くん、それなにに使うの?」
「まあまあ。天津さんはちょっと見ててよ」
疑問に首を傾げる――すでにそれすらもしにくかったけど――私をよそに、佐久間くんはキャップを外したペットボトルを床に並べていく。
ボウリングでも始めるのかな、なんて。桜ちゃん曰く「他人の悪意に疎い」私は、暢気にもそんなことを考えていた。
「よっし、準備完了! あとは……天津さん、ちょっと後ろを向いてくれる?」
「う、うん……?」
言われるがままに後ろを向く。背後に佐久間くんの手が伸びる気配。
そして今更になって少し不安を覚えた私に、彼はなにも告げないまま――私の背中のファスナーを、一気に引き上げた。
更に、愚鈍な私は今更気づく。
今私の入っている『コレ』は、一般的なものとは違い上下が完全に繋がってしまっている。
つまり――彼がファスナーを降ろしてくれない限り、私は絶対に『コレ』から出られない。
「あ、あの、佐久間くん……!? これってもしかして、一人じゃ脱げな――」
――ガチャリ
「――――え?」
聞き間違いの、はずだった。
聞き間違いで、あってほしかった。
しかし、それは間違いなく――一つしかない
「さ、佐久間くん!? ねえちょっと、悪戯は止めてよ、佐久間くん!!」
ドンドンと、私は視界の狭さと体の動かし辛さに苦戦しながら、必死に扉を叩く。
しかし、扉の向こうから反応はない。聞こえるのは部屋の高い位置に取り付けられたエアコンから響く、無機質な駆動音だけ。
そんなわけない、そんなわけない。
だって……さっきまであんなに、普通に会話してたのに。
一緒の大学に通って、一緒のゼミに入って、一緒に勉強して。そんな人が……私を殺そうなんて、するはずがない。
あんなに素敵な笑顔を浮かべていた、私と同じ人間が……そんな恐ろしい生き物で、あるはずがない。
しかし。そんな私の甘い考えは間違いだった。
徹頭徹尾、愚かな勘違いでしかなかった。
天津霞は、人間の悪意に疎すぎる。桜ちゃんの、言っていた通りだった。
「だ、出して! 私をこの部屋から――私を『コレ』から、出してよおおおおおおおおっ!!!」
――ピッ
部屋に小さく響いた、小さな電子音。
作動していたエアコンの機能が、冷房から暖房に切り替えられた瞬間から。
私の『本当の地獄』は、始まった。
*
「お姉ちゃんが味わった『本当の地獄』。
その元凶である道具は――着ぐるみですか?」
その言葉を、聞いた瞬間。
私は、すべてを思い出した。
佐久間くんの頼みで、可愛らしいウサギの着ぐるみを着たことを。
その状態で監禁され、暖房入りの締め切った真夏の部屋に放置されたことを。
部屋の中を動き回れたことを。
両腕は自由だったことを。
口は塞がれていなかったことを。
なのに、目の前の水はどうやっても飲めなかったことを。
地獄のような蒸し暑さを。
吐き出した胃液の匂いを。
死にたくなるほどの目眩と頭痛を。
じっくりと、肉が腐り溶けるまで。熱に犯されながら死んでいく、絶望を。
佐久間くん。いいえ。佐久間洋二。
彼のことが――憎くて憎くて、たまらないのだということを。
殺したくて。私と同じ苦しみを味合わせたくて。仕方がないのだということを。
『あ、ああああっ! あ゛ああああああああああああッッ!!!』
たまらず、私は私を押さえつけていた少女の中から飛び出した。
古明地椿。この少女に思うところはない。むしろ私に復讐の機会を与えてくれたことに、感謝しかない。
でも、だめだ。
恐ろしくて恐ろしくて、たまらない。
こんな――こんな、人形のように可憐な少女の中に、入り続けるなんて。閉じ込められるなんて。
「ひ、あっ……!? お……おねえ、ちゃ…………!?」
目の前で尻餅をついた桜ちゃんを、私は見下ろす。
桜ちゃんに、今の私はどう見えているのだろうか。
曖昧な輪郭の霊魂の姿だろうか。それとも肉が腐り剥がれ落ち骨がむき出しになった、恐ろしい怨霊の姿だろうか。
――どうでもいい。
どうでもいい。どうでもいい。どうでもいい。
あの男を、殺したい。
殺したい。殺したい。殺したい。
殺したいの。同じ目に遭わせたいの。だから殺したい。殺したい。殺させて。殺させて。殺したい。殺したい。殺したい。殺して。出して。ここから出して。殺させて。お願いだから。殺すの。殺したいの。早く。ねえ。あついの。くるしいの。だから殺すの。だからねえ。ねえ。ねえってば。
『あ゛あああああああ゛っッ!!! あついあついあつい!!! 出して、出して、出してえええええええええッ!!!』
桜ちゃんに、どう思われても構わない。
だから――だから私を、ここから出して。
早くあの男を、私に殺させて。
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