10 芸術家の最後

「着ぐるみ、ね。それなら確かに、私を怖がるはずだわ」


 怨嗟吹き荒れる座敷に佇む、一人の少女。

 霞の霊を解放し意識を取り戻した椿は、すべてを呪う嵐の中心を見据えながら納得したように呟いた。


『はやくっ! はやく、あいつをっ! ころすの、ころしたいのっ! あつい、あつい、あついいいいいいいいいっッ!!!』


 この場においての嵐とは、自然によって生み出された暴風などでは勿論ない。

 抑えきれない怒り、悲しみ、苦しみによる怨嗟の嵐。顕現した霞の怨霊が生み出すそれは物理的な衝撃となって座敷の壁を軋ませ、空気を震わせ、椿の艶やかな黒髪をたなびかせる。

 

 すべての謎を解き明かした張本人、天津桜はというと、一歩前に踏み出した椿の後ろで気絶していた。

 どうやら桜にも、椿ほどではないが霊感があったらしい。大切な人の怨霊となった姿を目撃したのだから、気を失うほどショックを受けても仕方ないだろう。大人びすぎていて忘れそうになるが、桜はまだ小学生だ。


「恐かったでしょう。苦しかったでしょう。いま私が、その願いを叶えてあげる」


 椿の瞳に映る霞の姿は、それはもう酷いモノだった。

 半透明の青黒い全身は所々が腐り落ち、骨が露出してしまっている。生前は美人だったろう顔にその面影はなく、落ちかけの瞳をギラつかせながら怨みを叫ぶ姿は、まさしく『怨霊』と呼ぶに相応しい。


 そんな凄惨な姿の少女を前にして、しかし椿は聖母のように語りかける。

 今の椿の頭の中には、自分の後ろで気絶した桜への心配も、これから死ぬだろう佐久間への憐れみも、欠片も存在しない。

 呪いで人を殺すという行為を嫌悪する倫理観も、法を介さない私刑に対する忌避感も、椿はすでに持ち合わせていない。

 あるのは、「目の前で苦しむ死者を楽にしてあげたい」という、どこまでも純粋な優しさのみ。


 そう。古明地椿は、とてもとても優しい少女だ。

 目の前で苦しんでいる人を放っておけない。例え目の前でなくても、方法があるのならば救ってあげたい。そんな綺麗事を心から願っている、慈しみ深い少女。

 ただその優しさの向けられる先が、生者ではなく死者であるというだけで――


「聞いて、霞さん。これから私は、貴女に最後の質問をします」

「ッ――――」

 

 屋敷中に響き渡っていた怨嗟の声が、ピタリと止んだ。

 しかしそれも一時的なこと。もし儀式の要である椿がこの場を立ち去れば、霞は見境なく怨みを撒き散らす悪霊となり、この屋敷の外へ解き放たれてしまうだろう。

 

「この質問に『はい』と答えれば、貴女は復讐を果たし成仏できる。『いいえ』と答えれば、貴女すべてを忘れた力なき怨霊に戻って、またこの世を彷徨い続ける」


 だから椿はこれから、『怨み』という闇雲な力の奔流に、方向性を与えてやらなければならない。


「さあ、霞さん。答えて頂戴」


 それこそが、復讐屋にして霊媒師である椿自らがしなければならない、最も重要な仕事。

 質問という言霊により怨霊を縛り、『怨み』という膨大なエネルギーを、対象への『復讐』にのみ向かわせるための、最初で最後の質問。

 

 慈しむように、問い掛ける。




「貴女は――誰かを呪い殺したいと思ったこと、ありますか?」




 質問

 あなたは、誰かを呪い殺したいと思ったことがあるか。


 漆黒に染まりきった瞳が、真っ直ぐに椿を見据える。

 その答えは、当然――




          *




 ――あつい。

 あつい、あつい、あつい。

 あつい、あつい、あつい、あつい。

 あついあついあついあついあついあつい――

 

 その異常が佐久間洋二の独房を襲ったのは、自らの生み出した芸術作品に彼が思いを馳せていたときのことだった。

 

 ゼミ内でも人の良さで評判だった霞をおびき寄せ、一人では絶対に脱げない着ぐるみを着せ、暖房の入った部屋に閉じ込め放置して出来上がった、芸術家『佐久間洋二』渾身の一作。


 天津霞との共同制作によって生み出された死に様アートは、佐久間の人生における最高傑作となった。

 いいや、最高などという陳腐な言葉ではとても言い表せない。その光景は彼にとって、それほどまでに凄惨げいじゅつてきなものだった。


 思い出いだしただけで、佐久間は興奮が収まらなくなる。

 あの、可愛らしい兎の着ぐるみの中で。自分の体液に塗れながら腐っていった霞の死に様の、なんと美しかったことか。

 まさに美と醜の共演、ギャップが生み出す芸術の終着点。なぜか理解してくれる人間は皆無だったが、それはきっと時代が佐久間に追いついていないからに違いない。

 霞だって今頃、自分を最高の芸術作品に昇華させてくれた佐久間に、あの世で感謝しているはずだ。


「あ、あつい、あついいいいい……! な、なんで……エアコンも効いてるのに……!」


 ――だというのに。

 先ほどから続く、この異常なまでの蒸し暑さはなんだ。


 日本では未だにエアコンが設置されていない拘留所も多く、夏場に地獄のような暑さを味わう被告人も珍しくない。が、佐久間が拘留された独房は運良く冷房が行き渡っており、十月に入ってもなお収まりきらない今年の猛暑は、佐久間には無縁のものだった。


 なのに、あつい。

 あつくてあつくて、堪らない。

 あまりの暑さに、すでに脱げるものはすべて脱いでいる。冷たさを求めてみっともなく這いつくばりもしたが、なぜか畳の床すらも夏場の車のボンネットのように熱く感じられた。

 

 まるで何重にも厚着しているかのように、流れ出る汗が止まらない。

 独房の外が、何やら騒がしい。それが自分の異常を察した職員達の喧騒だということすら、余裕のない佐久間には分からなかった。


「み、みずっ……! みずううう……!」


 水分を取るため、壁に備えられた洗面台へと這いずる。脱水症状になりかけの体でなんとか起き上がり、縄を掛けての自殺防止のために蛇口のない、足踏み式の水道のスイッチを押す。


「な、なんで……! なんでさっきから、みず、飲めな……!」


 水の飛び出し口に直接口をつけ、思い切りスイッチを踏み込んだはずだった。

 にもかかわらず、水は佐久間のカラカラに乾いた体を潤してくれない。飲めないのではなく、そもそも口の中に水分が入っていかないのだ。

 まるで口の前に仕切りがあるかのように、水は無情にも洗面台に垂れ流されていくだけだ。


「う、あ、あああ……」


 意識の朦朧としてきた佐久間は、為す術なくその場に倒れた。


 ――目の前に、女の足が見える。


 なぜ独房の中に女が。そんな疑問を抱く余地もなく、佐久間はその足に縋りつく。


「た、たすけて……! たすけ……!?」


 顔を上げた佐久間は、驚愕した。その瞬間だけ、ゾクリと体を冷気が駆け抜けた。

 その女は、確かに佐久間が芸術へと昇華したはずの――着ぐるみの中で腐り果てたはずの、天津霞その人だった。


『――あついよね? くるしいよね? 佐久間くんも、芸術になりたいよね?』


 わけがわからない。これはいったいなんだ。

 蔑んだ瞳で自分を見下ろす霞が、そんな佐久間の疑問に答えてくれるはずもない。

 彼女はただただ氷のように冷たい瞳で、佐久間の命が耐えがたい熱によって腐っていくのを見つめ続ける。


『なら、私が手伝ってあげる。あなたのことを、あなたの大好きなモノに変えてあげる。うれしいよね? しあわせだよね?』

「…………は、はは、ひ……ははははははははっ……!」

 

 命が腐り果てる寸前、理解を拒絶した佐久間の脳は、狂うことを選択した。

 独房に笑い声が響き渡る。ようやく踏み込んだ職員の目に映るのは、拘留のストレスで気をやってしまった、孤高の芸術家気取りの憐れな姿。

 

「お、おい、しっかりしろ! くそ、どうなってるんだ、これは……!」

「はっ! はひっ、はははははははははははっ!」 


 ただ、狂った佐久間にも一つだけ分かったことがある。

 自分を見下す霞も、霞の氷のように冷たい視線も。

 熱に侵され死にゆく佐久間洋二を憐れむ気など、さらさらないということだ。



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