11

 また、静寂の世界に還ってきてしまった。

 いや──そんなことはない。五感は戻り、刻は流れ、亦心は私の目の前にいる。

 私は、いまも生きている。


 ──ひどい喪失感ね。


 彼もこんな気持ちだったのだろう。

 愛する人に先立たれた気持ち。例えようのない虚無感。

『心が死ぬ』とはたぶん──こういう事を指すのだろう。

 私がるべき姿に、彼がってしまった。


 想いは──呪いだ。彼の寝室に入ると、布団が二つ並べられ、布団を囲うように刃物が散りばめられ、片方の布団には私のものと思われる頭蓋骨が毛布をかけて眠っていた。


 ひどい冷え性だったことを覚えていたのだろう。

 亦心はよく、寝る前に掛け布団の上に毛布をかけてくれた。


 彼の想いが呪いとなり、呪いが私を現世に呼んでしまったのかもしれない。あるいは彼が私を見つけなければ、未練もなく消えてしまえたかもしれない。

 いまの私の気持ちがエリカのものかどうかはわからない。エリカの欠片でしかない私が、生前のエリカの本当の気持ちを知る由もない。


「ありがとう、亦心……」


 私はリビングで生き絶えた彼の亡骸を寝室まで引きずり、その両の手を前で組ませた。ただ寝ているだけのような安らかな顔で、ほのかに笑っているようにも見えた。


「ちょっとだけ、待っててね」


 そう言って、私はキッチンに向かうと、一息深呼吸をした。コンロ下の棚から適当なフライパンを取り出し、それに大量の天ぷら油を注ぐ。そしてガスコンロの点火スイッチを押すと、点火音とともに青い炎が現れた。

 よく見ると生前気に入ってよく使っていた、白いフライパンだった。

 セラミックコーティングされ、焦げ付きにくいから愛用していたのだ。


 ──皮肉ね、彼のために料理で気に入って使ってきたものを、こんなことに使ってしまうなんて。


 火加減を強火にし、これから行うことを考えると、すぐに滝のような汗が湧き出た。


そう、彼も言っていたじゃないか。私は、と。

 恐怖は、いつだって『生きる』と隣り合わせだ。個を認識するために全と比べ、全に劣る個ばかりを認識する。


 ──私にはいつだって、あなたがいたのに。


 比べる必要なんてなかったんだ。私は、私のままでよかったのだ。

 あの時の私はそれに気付けず、他者と比べて劣る私に抗えず、その身を投げてしまった。きっと幸せだったのに──むしろ、あなたと一緒になった、これからが幸せだったのに。


「せめて、ずっと……ずっと一緒にいましょう?」


 熱した油がついに引火した。とすれば、やることは一つだ。

 炎の上に右手をかざし、自身の身体に火をつけることにした。


 人形の身体は何でできているのだろう。

 身体を構成する素材は? 構造は?

 ……まいったな。彼の仕事のこと、何も知らなかったんだ、私──。


「……痛い」


 熱を感じる──痛い。痛いけれど、腕にはなかなか火がつかない。

 ──二度も死ぬなんて、なんて稀有な経験なの。

 樹海の次は焼身自殺だなんて、と自身の愚かさに失笑した。


 しばらくして、ようやく手首のあたりに火がついた。しかし、フライパンから離れればすぐにでも消えてしまいそうだ。じわじわと火が燃え、その腕を溶かしていく。

 なかなか全身に火が回らずに苛立っていると、手の重さに耐えきれず、溶けた手首がその先を床に落とした。手首は燃え続け、落ちた手もまた燃え続けている。


「……プラスチックでできたオモチャを燃やしているみたい」


 艶がないからゴム──いや、シリコンだろうか。

 そんなどうでもいいことを、痛みを誤魔化すように考えている。


 次に、残った左手でコップに水を入れ、そのままフライパンに一気に流し込んだ。すると、高温の油で熱せられた水は急激に膨張して水蒸気爆発を起こし、引火した油を部屋中に弾き飛ばした。


 炎が天井まで一気に上がると火は瞬く間に部屋中に広がり、室内はより一層明るくなった。身体に燃え移らなくても関係ない。天井を伝ってカーテンを燃やすその姿は、まるで朱色の大波のようだった。


 キッチン横にある窓ガラスをふと見ると、炎の光の反射のせいか鏡のようになっている。窓の外が暗いからこそ起きた現象だろう。

 窓ガラスに映った私の姿は紛れもなく──部屋中に飾られた写真と同じ顔だった。


 しかし、彼が十三年間大切にしていた写真は、今はもう見る影もない。

 黒く焦げて灰となり、その部屋を巻き込んで、私の世界に閉じ込めていく。リビングを覆い尽くした炎は寝室を侵し、それに誘われるように私は、身を溶かし続けながら項垂うなだれるように亦心の隣に座り込んだ。


 そして──火の灯る蝋燭のように溶けた右手を、彼の組んだ手の上に乗せた。熱くもない、冷たくもない──痛覚だけが支配した私の身体を、分けてもらった感覚を還すように、私は命を手放していく。


「これからはずっと一緒だよ──レン……」


 私のその言葉は、意識とともに、そして彼とともに世界にけた。

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