10

 気がつけば、彼は私の目の前で倒れていた。

 息は──そうね、大丈夫そう。亦心はまだ生きている。

 普通の人間と同じく、私は普通に立っていた。


 ──普通? 普通って……なに──?


 息をすること? 食事をすること? 人の話を聞くこと? 自分で考えること? 自分の瞳で世界を識ること? 自分で物を掴むこと? 自分で立ち上がること? それとも──人を好きになること?


 私はずっと考えていた。あの時、崖から落ちた衝撃で隆起した、自身の骨を見ながら。野生の動物に血肉を喰われ、遠くなる意識に抗いながら。四方八方で、耳障りな鳥の鳴き声に陵辱されながら。


「……思い出したわ、全部思い出した」


 冷たい手を亦心の頬に当てて、彼にそう話しかけた。


「……エリ……カ──」


 蒼白に染まり、ゆっくりと上げた彼の顔は──十三年前の亦心そのものだった。


「ありがとう。私のこと……忘れないでくれて」


 そう、ずっと私は彼の記憶の中で生きていたのだ。

 いま思えば、ずっと黒い世界で漂っていたのは彼の記憶の中。彼の世界──彼の記憶そのものだったのだ。


「ありがとう。私のこと、守ってくれて」


 彼はずっと悔いていたんだと思う。「綺麗な景色を見に、森林浴に行きたい」という私に彼は応えて、彼は登山に誘ってくれた。「結婚式前だから」と気分転換に二人で休日を合わせて山に向かった。


 しかし、私の狙いは景色を見るためではなかった。いわゆるマリッジブルーというもので、元々精神的に不安定だった当時の私は──死ぬことしか頭になかった。


「でも、もういいの。……もう、いいのよ」


 蓋をしていた彼の世界が、私の中に流れ込んでくる。


「ちょっと休みたいから先に登ってて」と追い立てられて先に登ったものの、しばらくしてから後ろを振り向いて待っていても一向に姿の見えない私。あの時、手を離さなければ、「一緒に登ろう」と言っておけば──その無念が私の中に流れ込んできたのだ。


 何ヶ月もかけて捜索をしたにも関わらず私は見つからず、彼もまた樹海に迷い込んだ。きっと亦心も死ぬつもりだったのだろう。私の頭に巡る彼の記憶は、私と同じ感情に似ている気がした。


「私はちゃんとここにいるから。あなたのそばにいるから」


 しかし、彼は私を見つけてくれた。捜索願で動いた警察ですら発見できず白骨死体となった私を、彼は見つけてくれたのだ。行方不明となった──当時の服装を身にまとったままの私を。

 既に精神が壊れてしまっていた彼は、私の骨を詰められるだけ鞄に詰め、自宅に帰った。死亡届を出さなかったのは、私が死んだという事実を受け入れられなかったのだろう。


『人形作家』であった亦心は、それから私に瓜二つの人形を作った。子供がよく人形遊びにも使う、仰向きに寝ている時には目を閉じ、座ると目が開くという『活眼』の仕掛けを使った人形だった。


 つまり、今の私は人工的に作られた人形という〝器〟に、十三年間もの間、生前のエリカと同等の愛情を一身に受け、亦心の記憶の中のエリカという〝魂〟が入っただけの傀儡なのだ。


「私と一緒にいても、もうあなたの子供は産めない。あなたを幸せになんてできない」


 魂が器に定着したせいか、私の頬を涙が伝う。


「だって、人形だもの。私は人形……死んでいるんだもの」


 そう言って、私は彼の頬をまた撫でた。そう、彼の涙を拭うために願った、腕の自由だ。俯いたままの亦心は私を見上げ、いつものように微笑んだ。


「──ない……」


 だんだんと冷たくなっていく彼の小さな言葉が、私の耳を掠める。


「そんなことない。そんなこと──ないよ」


 そう繰り返す言葉とともに、彼もまた、私と同じように泣いていた。


「……生きているよ。僕も、君も……一生懸命生きているんだ」


 ──生きている? 私が?


 亦心は私が人形だというのに、生きていると言った。

 彼の血で染められた衣類を〝命〟としてすする私に、生きていると言った。


 気付いていたんだ。寝室で聞こえた金属音──あれはカッターだ。

 いや、これだけ服を紅に染めるには、剃刀も使ったのかもしれない。


「……幸せな、日々だった」


 亦心は精一杯の力を全身に込め、身体を上に向けた。かつての私と同じように、不自由な身体を仰向けに。


「君が帰ってきたんだ。……この家に帰ってきてくれた」


 こんなに幸せなことはない、と彼は笑って、咳き込みながら口から血を吐く。付着した頬の血液を手で拭うと、吸い取るように私の手の中に消えていった。


「だから大丈夫。僕らはずっと、ここで幸せに暮らせるんだ」


 まるで自分に言い聞かせるように、生前の私と同じように、人形の私に言ってくれた。


「だから──泣かないで……」


 亦心がゆっくり私に右手を伸ばすと、糸が切れた操り人形のように、彼の腕が床にガタンと落ちた。


 それは、彼の死を意味していた。いや、彼の命と、記憶と──すべてを奪ったといっても過言ではない。


 私はいつかのように、一人になってしまった。

 私の中に彼がいるのに、私はまた──独りになってしまった。

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