翌朝、鳥のさえずりとともに彼に声を掛けた。昨日のあの様子を見てしまったからには、手荒な起こし方はできない。優しく、撫でるような声で彼の名前を呼んだ。


「やぁ、おはよう」


 随分と今日は目覚めがいいようだ。いや、もしかしたら一睡もできなかったのかもしれない。

 自分で巻き直したようで、昨日の血が滲んだ左腕とは打って変わり、真っ白い包帯が綺麗に腕を包んでいた。


『おはよう。調子はどう?』


「んー、まぁまぁかな」と彼は苦笑しながら答え、目線をそらして頭を掻いた。

 ──嘘つき。

 私は騙されたフリをして、『そっか』と笑った。

 気がつけば、私の身体は随分と自由が効くようになっていた。


「エリカも、だいぶ調子が良くなってきたみたいだね」


 少し微笑みながらそう言うと、私もつられて笑った。


『ヒトミの看病のおかげだよ!』


『帰ってこなった日なんか、左手だけで身体を起こして自分で座れたんだから!』と胸を張って言うと、彼は少し困った顔をしてしまった。


「そうか、左手だけでも動くようになったならよかった」


 ──左手、だけ? 

 なんだろう。少し違和感がある。左手、だけでも?

 そう、私の身体はどこかおかしい。点滴だけで生きていけるのは理解できる。実際、入院で固形物を食べられず、点滴のみで生活を余儀なくされるのはよくあることだ。


 ヒトミと暮らしながら彼が点滴を行なっていたのだと仮定して、彼がいなくなった間、私はどうやって生きながらえていたのだろうか。

 二人の間で不自然な静寂が響いた。彼もそれを察したようだった。


「……聞きたいこと、あるんだろう?」


 先手を打ってきたのは彼だった。


『──あ……』


 思わず、声が漏れた。私が聞きたいのは、自身のことか、それとも──。


『……奥さんの写真──』


 そう、部屋中に飾られた、女性の写真のことだ。


「あれは……」


 言葉を呑み、ヒトミはしばらくの間黙り込んだ。


 ──やはり、聞いてはいけないことだったか。

 冷静に考えれば当たり前のことだ。部屋中に写真を病的なまでに飾っているということは、それだけ大切な人ということ。部屋のどこに目をやっても必ず目に入るように配置されているそれは──どう考えても異常だ。


 きっと奥さんに先立たれて、それを忘れまいと彼女の写真を部屋に飾っているのだろう。二人で生きていた記憶を忘れないように。二人で生きていたこの部屋で、その時間が流れ続けるように。


 よくあるストーカーの可能性が脳裏をよぎったが、どうにも私の頭のネジは外れてしまっているらしい。うぅん、ただのポジティブ。だって彼が好きだもの。


『ごめんなさい、いまのは忘れて。私の身体のことだけど──』

「あれは、妻じゃない。結婚直前の、恋人だよ」


 私の言葉を遮り、ヒトミはそう答えた。


「それに僕はまだ結婚もしていないし、独身だよ」


 それを聞いて、少しホッとしている自分がいた。こんな身体になっても、結局私は女ということだろう。知らず識らずのうちに、苦しい日々を支えてくれる男性に想いを募らせていたのだ。


『その彼女さんとは別れてしまったの?』

「……うぅん」


 彼は微笑んで、私の言葉を否定した。


「ずいぶん時間がかかってしまったけど、


 一緒に過ごしている──その言葉を聞いて『そっか』と答えた。それもそうだ。私みたいな身体の不自由な女よりも、きっと──。


 悲しさとは裏腹に、多少の安堵もあった。

 以前見た夢──遺体となった女性がヒトミのパートナーだったらどうしよう、という不安もあったのだ。


 しかし、安堵とは逆に、さらなる疑問も現れた。

 ──じゃあ、私は……彼の何なの?

 ヒトミの家族? 彼女の姉妹? それともやっぱり、彼は私のストーカーで、自由を奪って自宅に置いているの? あらゆる可能性を考えても、記憶がなければ解が出るはずもなく。


「それと──君のこと……」


 ドクン、と血の気が引ける感覚があった。ヒトミの言葉は、まるで私に呪いでもかけるかのように、五感を氷づけるような感覚を錯覚させた。


「──君は、僕の彼女の……」


 ダメだ、聞いてはいけない。聞イテハ──イケナイ。

 そこでブチン! と、意識と、五感と、彼との数日だけの記憶が、一瞬で消え去ってしまった。

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