「……ッ!」


 ──なんだろう、誰かが叫んでいる気がする。


「──ッ!」


 ──いやだな、もう私は疲れてしまった。


「……リカ! エリカ!」


 ──もう、待つのは……待つのは、疲れてしまった。

 ヒトミはもうずっと帰ってこない。身体もうまく動かない。

 それなら、もう──いっそのこと、何も感じない世界に時間を巻き戻してしまえば楽なのに。


「エリカ! 目を覚まして!」


 ──誰? 私を呼ぶのは、誰……?


 もう目蓋を開けるのも億劫だ。身体を動かすのも億劫だ。何時間もかけて身体を這うようにしてヒトミの部屋を見回してわかったのは、ヒトミには奥さんがいて、生活力のないゴミだらけの家に住んでいるということだった。

 壁、棚の上、キッチンの上、至る所に若い女性の写真が立てられていたのだ。


 玄関前を見ても女性の靴は一切なく、誰かが出入りする様子もない。

 別居中、なのだろうか。


 ──結局、私は何なんだろう。私は、誰なんだろう。


「──エリカ!」


『あぁ、もう面倒臭いな』と言おうとしたところで、私の目蓋が勝手に開いた。

 この感覚は覚えている。ヒトミが私を抱き起こしてくれた時の感覚だ。


『ヒト……ミ……?』

「よかった! !」


 私の目に映ったのは、まぎれもなくヒトミの姿だった。


『どうして……?』


「どうして帰ってきてくれなかったの」と聞きたかったが、それ以上は聞けなかった。


 ──きっと、奥さんのところに……。


「ごめんね、交通事故に遭ってしまって。そのまま帰るつもりだったんだけど、僕をねた運転手に救急車を呼ばれてしまって」


 いやもう全身ボロボロだよ、とヒトミは笑って言った。


『──撥ねられた……って車に?』


 聞くと、「うん、そう」と彼は頷いた。


『……わ、私のことより自分の心配してよ! 普通は入院だよ!』


 話を聞くと、救急車で運ばれたものの、「身体が動くようになったから」と強引に病室から抜け出してきたらしい。


「大丈夫だよ。頭は働くし、ほら──手も足もまだ動く」


 そう言って彼が自分の四肢が動く様子を見せ、私に笑いかけてくれた。左手の包帯には──血が滲んでいた。


「ひとまず間に合ったみたいだから、少しだけ寝ることにするね」


 隣の部屋で休んでいるから、と私に言って、フラフラになりながら寝室への扉を開けて姿を消した。

カチカチ……カチカチカチ、カチカチ──。聞き覚えのある不穏な音をかすかに立て、寝室は静寂を極めた。


『……ヒトミ──』


 今にも消えてしまいそうな彼の命が、夢で見た不安を一層駆り立てる。


 ──夢……だよね?

 彼の奥さんはもしかして、もう──……。

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