5
その日、ヒトミは帰ってこなかった。
──今朝、驚かせるようなことしたからかな。
いや、そんなことはない。「怒ってない」って言ったもの。
──本当は怒っていたのかも。
いや、そんなことはない。たしかに笑っていたもの。
──事故に巻き込まれたとか。
でも、彼との連絡の手段がない。私が出来ることといえば、無限に刻む秒針の音と、無断で侵入してくる隙間風とともに、部屋で彼を待つことだけ。
私が──私だけが世界から切り離された感覚だ。視覚と聴覚が自由であれ、黒の世界に在った私となんら変わらない。
いても立ってもいられず、私は動く左手だけを使い、自力で座ることができるか試してみることにした。すると、自分の身体とは思えないくらい、自然に体勢を変えることができた。いや、左腕だけではない。ほぼ全身、力こそ入りづらいけれど動くようになっている。
──火事場の馬鹿力ってやつかしら。
やるじゃん、私。いまだけは調子に乗っておこう。
秒針の音が私を焦らせる。「早く彼のもとへ行かなければならない」という強迫観念のごとく、私を責め立てているように感じた。
──でも、彼はどこ?
いいや、そんなことはどうでもいい。今はまず、起き上がらなければ。
──頭の上に手を乗せるだけなら、あんなに簡単だったのに。
全身を動かすのと腕一本動かすのとでは、脳からの発する電気信号の数が違うということか。複雑化しているようで、うまく動かすことができない。
『……動い──てッ!』
勢いよく左腕に力を入れ、反動で上体を起こした。ズリズリとお尻を滑らせ、ベッドの頭元にあるヘッドボードで腰を安定させ、ようやく座ることができた。
──部屋が、明るい……?
ちゅんちゅん、と鳥がさえずりが聞こえる。
どうやら、もう朝のようだ。
ヒトミとはたった数日の付き合い。記憶を失う前は交流もあったかもしれない。それでも、ヒトミという存在をゼロから知って数日だというのに、たった一日会えないのがこんなに苦痛だなんて。
『……耐えられない──』
私は座ったまま瞳を閉じた。涙を流せたなら少しは気分も違っただろう。いや、頬の感覚がないだけで流れてるのかもしれない。それでも、こんな時でも涙が流せない私は、人間として欠陥品なのではないかと感じてしまう。何かをしたいという気持ちが湧かず、ただそこに在る、そう──人形のような私。
そのまま私は崩れ落ちるように、朽ち果てるように──前のめりに倒れ込んだ。
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