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あれから数日──というのも、正確に日時を把握しているわけではない。身体を不自由も相変わらずで、かろうじて回復したことといえば、少しの間なら左腕だけ軽く動かすこと、目蓋を自由に開けられるようになったことくらいだ。
口は動かずとも会話できる点も不可解な点ではある。ただ、決定的に理解できない点はもう一つ。
私は──目が覚めてから一度も食事を取っていない。
ヒトミは「点滴をしているから栄養は取れている」というが、はたして病院でもない場所で点滴などできるのだろうか。
「訪問看護でそれは可能だよ」と言っていたけれど、ヒトミ以外が家の中に入ったことはない。それなら──ヒトミ自身が看護師で、それを私が記憶を失う前にヒトミに依頼していたなら話の筋が通るけれど──。
考えれば考えるほどに彼が一体どんなの目的で私のそばにいるのか不安になる。しかし、それ以上に私はヒトミのことを気に入ってしまっている。
──難儀な話だ。
仮にヒトミが犯罪者だとして、監禁や拘束した状態が続くと《ストックホルム症候群》のように、被害者が犯人に対して好意的になる、という心理状態を聞いたことがある。死ぬかもしれないという状況下で、犯人の小さな親切に対して感謝の念が生じるというものだ。
──って、外見だけ見たら、ちょっと危ない人だよね。
無精髭に、不揃いのボサボサの髪。そして、どこか焦点の合わない瞳。玄関に向かう彼を何度も見送ったが、本当に仕事をしているのだろうかと不安になるくらいだ。再三注意したが、曖昧な返事をするばかりで一向に自分を魅せるということをしない。いやまぁ、よぉく見たらイケメンなんだけど。
───あっ、そろそろ時間だ。
そう、時間。部屋は日の出の光で少しずつ明るくなり、もう少しで六時半になる。時間がわかるのは、彼に頼んで、私が寝ているベッドの前に掛け時計を置いてもらったからだ。
寝起きが悪いヒトミは、五分──いや、下手をすれば十分近くアラームを止めずにベルを鳴らし続ける。それなら私の声でなら起こしたらどうだろうか、と提案して始めたのがエリカ式目覚まし時計である。
『おはようー!』
まぁ、単純にベルの音を私の大声に変えただけなんだけどね、と内心笑ってしまった。今日が初お披露目だ。
『おはようー!』
もちろん、一度や二度で起きるヒトミではないのはわかっている。
『おっはよー!』
そう、まだまだ。あの男がたかが三回で起きるはずもなく。
『……おっ、はっ、よーっ!』
え、マジか。布団をかぶって音を遮ろうとする、布団がこすれる音すら聞こえない。
『おッ! はッ! よーッ!』
──いいかげん飽きてきたな。
『…………』
黙り込み、私は次の手を考えた。両腕が自由なら、フライパンを持ち出してお玉でカンカン鳴らしていただろう。あいにく、短時間でしかも片腕しか動かないから、それは無理だ。となれば──。
『……よし』
片手で這うように、モゾモゾと身体を動かしてベッドの端に移動した。私がベッドから落ちる音を聞けば、さすがに驚いて起きるだろう。エリカ式目覚まし時計の採用初日で前任のアラームより時間がかかってしまっては、私の威厳に関わる。
──よし、もう少し。
しかし、もう少しというところで「さすがに痛いんじゃないか」「骨とか普通に折れるんじゃないか」と考え出してしまった。
いや、そもそも自分の触覚は機能していないようだし、逆に骨が折れたとしても痛みなどないという確信もあった。
『……えぇい、かまうもんか! せーのッ』
「おはよ──ってちょっと待った!」
あと一手というところでヒトミは寝室の扉を開けて私に慌てて近寄り、落ちるのを止めた。
「──何やってんの!」
『……あ、あはは……。ビックリさせて起こそうと思って……』
寝起きで機嫌が悪いのか、彼はひどく険しい顔をしている。いや、訂正。私のせいだ。
──うぅ、我ながら浅はかだったか。
「……たしかにすっかり眠気がなくなる優秀な目覚まし時計だけど、さわやかな目覚めではない──ねッ!」
そう言って、ヒトミは私の額を指で弾いた。力の入らない私の首は頭を支え切れず、視界は一気に天井を向いた。
『で、デコピンしなくてもいいじゃん!』
上を向いたまま話す私に、彼が小さな声で笑うのが聞こえた。
「……うぅん、これは愛情表現」
そう言ってヒトミは私の首を支え、顔を元の位置に戻した。
──頚椎、おかしくなってないかな。
『……怒ってる?』
私が聞くと、彼は首を振り、「怒ってないよ」と微笑んだ。
──いや、ゼッタイ怒ってた。
心の中で反語を唱え、私はヒトミの笑顔をただじっと見ていた。
そうだ、もう一つ私とヒトミの中で変わったことがある。彼がよく笑うようになった──気がする。
あくまでこれは客観的だし、実際そうなのかどうかはわからない。しかし、会話が弾むようになった気がするのだ。
私は意識を左手に集中させて、ヒトミの頭を撫でた。
「……うん?」
キョトンとした顔でこちらを見たので、『ただの愛情表現よ』と私は笑った。
この数日間、この行為が日課になっている。
私ができることといえば、かろうじて動く左手で彼の頭を撫でる、会話をする、共感する──その程度だ。触れ合うコミュニケーションは彼も戸惑うように見えるけど、まんざらではなさそうだ。
いつものように玄関に向かう彼を見送り、変わらぬ静かな一日を過ごす。
──自由に歩けるようになったら、ヒトミと外を歩きたいな。
いまの季節は何だろう。春だったら桜を見に行きたいな。夏ならプール、花火も見に行きたい。秋はそうだなぁ……おいしいものを食べたい。冬なら──もし雪が積もったら雪だるまを作ってみたいな。
私の願いは、募るばかりだ。涙を拭うために願った腕の自由も、拭う必要がなくなった代わりに頭を撫でることができるなら、それはそれでよかったのかもしれない。
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