3
『──恋?』
ヒトミが帰宅したのを確認すると、彼の名前を漢字でどう書くのか教えてもらった。しばらく話すことすらできず、やっと会話できる相手を得たのだから、そのくらいはいいだろうと
ヒトミは一度外に出て郵便ポストを開け、中に入っていた適当な紙に自分の名前を書いて私に見せてくれた。あえて縦書きに書いたのは、彼なりの話題作りのためだったのだろう。
そこには【亦心】と書かれていた。
『こんな漢字、初めて見た気がします』
「ハハ、よく言われるよ。親もなんでこんな漢字を使ったんだか……」
視線を逸らし、握った拳で照れくさそうに唇を隠しながら彼は言った。
「《亦》は『また』と読んで、《心》は……まぁ言わずともわかるかな?」
──なるほど。これは「また」と読むのか。
この漢字の使い方としては「〜も亦」「今日も亦〜」のように、前者もしくは後者と同様に、というもののようだ。ご両親はきっとヒトミさんに、自身が心で思ったことに嘘をつかないように、心と身体のバランスを保てる人間になれるようにと願いを込めて名前をつけたに違いない。
「《亦》は名乗りで『ひとし』、《心》は『み』とも読むんだ。それを掛け合わせて【ヒトミ】」
『素敵な名前、ですね』
そう告げると、彼は照れくさそうに目線をそらし「ありがとう」と言った。
「そういえば、学生の頃は『恋』と見間違えて『レン』と呼ばれたこともあったな」
『たしかに名前にそう書かれていたら読んでしまうかも……』
横書きで書かれたらなんて読むかわからないわね、と内心思ったが、あえて言う必要もないから黙っておいた。
「あぁ、そうだ。君の洋服を着替えさせないといけないね」
そうね、と私は答えた。身動きできないから仕方ないとはいえ、男性に着替えを手伝ってもらうのは少し気が引けるけれど──。
「……ちょっと待っててね」
そう言って私を仰向けに寝かすと、また目蓋が勝手に閉じてしまった。やれやれ、自分で自分の身体を制御できないのがこんなにも億劫だなんて。
自分自身の記憶がないから自分の年齢すらわからない状況だが、介護される側に立つとわかることもある。記憶が喪失する前は何の仕事をしていたかは知る由もないが、介護利用者の苛立ちはもしかしたらこういった自身の身体を御せないことにも関係するのではないか──と考えてしまう。そんなことを考えたところで、今の私に何のメリットもないのだけど。
ヒトミが足音とともに隣から離れて行った。ガサゴソと音を立てながら、私の洋服を探してくれているようだ。
しばらくすると、どうやら目的のものを見つけたようで、物がこすれる音はすぐに鳴り止んだ。
かと思えば──カチカチカチ、カチカチ──カチカチカチ……と、どこか聞き覚えのある金属音が聞こえた。
──何の音、だったかな。
ダイヤル式の南京錠? ガスコンロの点火プラグの音? いや、火花を散らす点火音にしてはリズムが不安定だ。仮にガスコンロの音だったとしても、昨日夕飯を作ると言った時に向かったキッチンとは逆方向だ。
──わざわざ詮索する必要もない、か。
私は目を閉じたまま、ヒトミが着替えを持ってくるのを待つことにした。しかし何故だろう、彼の気配がしない。いや、そこにいるのは確かなのだけど、その場で立ち止まっているのか、動いている様子がない。
すると、カチカチ──カチカチカチ、カチカチ……とまた同じ音が聞こえた。またガサゴソと音が聞こえてしばらくすると、彼の足音がこちらに向かってきた。
「おまたせ。さ、古い洋服は捨てて、新しい服に着替えよう」
──古い、服……?
いま、捨てると言ったか。
『いや、洗えばいいし、捨てる必要はないと思──』
「ダメだ」
ヒトミは言葉を遮るようにして、服は捨てないという私の意思を否定した。
『……どうして?』
捨てなければならないくらい、汚れているのだろうか。
「理由は──」
言葉を詰まらせ、彼が深呼吸するのが聞こえた。
「理由は……言えない」
何も聞かないでくれ、と言葉を続けると、私の身体を起こした。目蓋が開き、視界に映った彼の姿を見ると、その表情はひどく悲しそうだった。
『──はい。わかりました』
何か理由があるのだろう。言いたくないことを言わせるのも難儀な話だ。それに、ヒトミと私の関係を私自身が知らない状態でズカズカと踏み入るのも失礼だろう。
「ありがとう」と彼が言うと、用意した服を手際よく着せてくれた。数回パチンと鳴っていることから、おそらく凹凸で一組のスナップボタン式の服だ。
着替えを終えて、彼の表情が少し穏やかになったところでふと気が付いた。
──あの、下着は……?
言おうとしたが、恥ずかしくて言えなかった。女子だもん、仕方ないよ。
着替えの手際も良かったし、面倒見も良さそうだし、そのうちやってくれるだろう。
──あぁ、ズボラだなぁ、私……。
「……はい、おしまい。僕はこれから夕飯を作るから、少し休んでいてね」
その言葉に頷き、私の要望もあって座って彼を待つことにした。単に横になると目蓋が閉じてしまうこの症状が退屈なだけだけれど、出来ることなら彼の姿を視界で捉えておきたかったのだ。
──本当に、いますぐにでも消え入ってしまいそうだから。
私はすっかり、彼のことが気に入ってしまったようだ。その背中が背負ったものが何なのかはわからない。わからない故に、惹かれてしまったのかもしれない。
彼の涙を拭うことは──今日も叶わなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます