どれくらい時間が経ったのだろう。視界は黒で塗りつぶされ、ひどく静かだ。その意識の中でいくら手を伸ばしても触れるものは何もなく、いくら声帯を震わせてもそれが世界で響くことはない。


 昔はよく本を読んでいた気がするが、今はそのタイトルすら思い出せない。作家の名前も、ジャンルも、何もかも。……滑稽な話だ。こんな真っ暗な世界で、私はどうやって読書をしたというのだ。


 ──今日は何日だっけ?

 思い出せない。


 ──昨日は何をしてたっけ?

 思い出せない。


 ──私の名前は……何だっけ?

 思い……出せない。

 そんなことばかり繰り返す日々だ。


 ほとんど寝てばかりの生活サイクルが、記憶や時の流れを忘却へと導いているのだろう。

 自分で起き上がることができず、首ひとつすら満足に動かすこともできない。手も足も、自分で動かすことはできない。ただ──意識だけがそこに在る。


 はたしてこれは『生きている』といえるのだろうか。

 不意にそんなことを考えてしまう。

 しかし、私という存在を私が認識しているならきっと──それは『生きている』ということだ。


 ──そう。私は……生きているんだ。

 自分に言い聞かすように、その言葉を心に刻む。


「……ただいま」


 遠くで誰かの声が聞こえた。どこか聞き覚えのある、か細い男の声だった。さらに奥の方で、ひゅう、と風を切る音が聞こえる。耳をすませば、カチ、カチ、とリズムを刻む音も反対側から聞こえた。


 しかし生まれてこの方、私は人間の声はおろか、聴覚が音を捉えたことなどないはず。遠い昔、言葉を聞いた記憶が微かにあるが、それも正直定かではない。


 なにしろ、そのが曖昧なのだ。

 そう──時計が刻む秒針の音も、部屋のいたるところから入り込む隙間風の音も聞いたことはない。しかし、見たことも聞いたこともないはずなのに──なぜか私はリズムを刻む音が『秒針の音』であることや、ひゅうと耳を掠める音が『隙間風』であることを知っている。


 私の疑問は何処吹く風。しばらく沈黙が続いたあと、誰かが私の動かない身体を起こすのを感じた。


 ──先ほどの声の主だろうか。

 股関節のあたりを起点にゆっくりを腰を曲げていくにつれて、長い間自力で開けることができなかった私の目蓋がいともたやすく開いていった。突然の視覚情報に視神経が火花を散らし、それが脳に伝わっていく。


 例えていうなら、不具合のある電気回路に強引に電源を入れたような感じだ。就寝、起床からくる視神経のオンオフとは違い、永い間暗闇に似た場所で意識を漂わせていた私にとって、網膜に達した『光』はそれだけ負担になってしまったのだろう。


 まず目に映ったのは男の顔だった。剃り残しが目立つ髭面に、ボサボサの髪。顔の作りは日本人。黒い髪に、高い鼻──そして、私をまっすぐ見つめるブラウンの瞳。


 ──あっ、ヤダ。無精髭をなんとかしたら、わりといい男かも。

 そんな私の雑念を他所に、彼はなぜか、私のことをひどく心配そうに見つめている。


 男の背景に焦点を合わせると、窓が開いているのか、風がレースカーテンを揺らしているのが見えた。ほかにも部屋の周囲を確認しようと思ったが、寝たきりの生活が続いたことによる筋萎縮のせいか、首が全く回らなかった。


「やあ、エリカ。気分はどうだい? うん、僕のほうは相変わらずさ。きょうも上司に怒られてしまった」


 そう言って、男は今日職場であったことを淡々と語り始めた。


 ──私はこの男の何なんだろう。

 妙に馴れ馴れしいが、かと言って男の話を聞いていて不快な感じはない。それが私の、この男に対する第一印象だった。


 まぁ、これでブサイクな男だったら「キャー! なにこの犯罪者! 近寄らないで!」とか思うのだろうが、女は所詮ミーハーなのだ。異論は受け付けない、とりあえず。


 彼は表情ひとつ変えず、会話に慣れていないのか話の途中で口ごもっている。まるでパペットで人形劇でもしているかのように、会話の合間に彼は一人で相槌を打っていた。


 ──誰かと間違えているのかな?

 さっき私に向かって「エリカ」とこの男は呼んでいた。それが私の名前なのだろうか。

 この男から聞き出せば、自分のことが何かわかるかもしれない。そう思って口を開こうとしたが、自身でも驚くくらい微動だにしない。まるで、人間が口を開く際に本来機能するべき神経や筋肉そのものが排除され、人形の身体になってしまったようだった。


「それと──なぜか急に耳が遠くなってしまってね。……うん? そうそう。上司の指示がうまく聞き取れなくてさ。自分の声を聞くのがやっとだ、ハハハ」


 しかしなんというか、よく独り言のようにここまで喋れるものだ。時計が見えないからどのくらい時間が経ったのかはわからないが、もう随分と長く男の一方通行な会話が続いている気がする。


 私も自分の話をできればいいのだろうが、いかんせん口が動かないので会話に参加することができない。

 どうやら、聞き役に徹するほかないようだ。

 ──まぁ、不思議と飽きないのだけど。


「さて、そろそろ夕飯にしようか。君も食べるかい?」


 夕飯ということは今は夜なのだろうか。この部屋の明るさは、どうやら蛍光灯の光だったようだ。

 身動きが取れないまま男の言葉を聞いた私は、首を横に振ることができず、頷くこともできず、目を見開いたままそこにいた。微動だにしない私の姿を見ると、男は満足そうに口元を緩め、少し目元も笑ったように見えた。


「……いや、そうだな。無理に食べる必要はないよ。座っているのも疲れたろう? 今日も話を聞いてくれてありがとう、エリカ」


 やはり、私は『エリカ』という名前なのか。そう錯覚してしまうくらいに耳触りがいい、聞き慣れた響きだった。そして──男の声色も。


 どうやら夕飯を作りにキッチンに行ったようだ。しかし、視界から男の姿が消えると、なぜか急に不安になってしまった。もう二度と会えなくなってしまうのではないかという不安。早く男の話の続きを聞きたいという焦燥感。


『あの……あなたの名前は?』


 そう声を発しようとしても、やはり私の口は動かない。長年寝たきりでまったく動かしてない身体なら、口を動かす筋肉の硬直もやむなし──か。


 その時だった。「えっ?」という男の声が遠くで聞こえた──かと思えば、視界の中に急に男の姿が映りこんだ。


「エリカ、いま──」


 男は少し前より二倍くらいに大きく目を開けて、鬼気迫る顔つきで私を覗き込んだ。


「──いや、まさかな……」


 首を左右に振りながらため息をつき、何故か男は私の身体を仰向きに寝かせた。今まで映っていた男の顔と部屋の映像が下にスクロールし、目蓋が勝手に閉じ──私はまた黒い黒い世界に戻ってしまった。


「……おやすみ、エリカ。また明日」


 私の心はなみだを流し、そのまま──男の足音がゆっくりと遠くなっていくのを聞いていた。

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