第2-b話
紀子は瞬きもせず、大きな眼を見開き泣いていた。
はるなが紀子を抱え上げ、呼びかけながらしきりに揺すっている。
同年代の子供と比べて、紀子は感受性が豊かであるように感じることはあったけれど、
はるなは目に涙を浮かべながら、紀子をあやし続けている。
秀樹は、はるなのそばに駆け寄った。
「一度村上先生に診てもらったほうが、良いかもしれないな」
尋常ではない紀子の様子に、秀樹はそう呟いていた。
増加する一方の乗客とのトラブルや、多くの命を預かる仕事上のストレスも大きく、秀樹は会社から紹介されたクリニックで定期的にメンタルカウンセリングを受けていた。
「でも……」
はるなは言葉を濁して、それ以上言おうとしない。
出産前、ストレスから体調を崩したはるなは、秀樹と一緒に診療を受けたことがあった。
そのとき何故か余り良い印象を持たなかったらしく、経過診療を断っていた。
秀樹は一度それとなく理由を訊いてみたことがあったが、はるな自身にも良く判らないようだった。
秀樹はとにかく紀子を正気付かせようと頬をそっと叩いた。肩まで伸びた髪が僅かに揺れる。
一つ小さな嗚咽を漏らすと、紀子は泣くのを止めた。
顔を見て安心したのだろうか。宙を
秀樹は紀子の手を握り、はるなから紀子を受け取る。自分の目の高さに紀子の顔がくるように抱き上げた。
紀子は、直前まで泣いていたのが嘘のようにニコニコと笑っている。
はるなはほっとしたような顔をして、横から紀子の顔を覗き込んでいる。
もう大丈夫か……。そう安堵しかけたとき、背後に気配を感じて、秀樹は慌てて振り返った。
「ど、どうしたの?」
「いや……」
扉の柱のすぐ近くで、赤毛のクマのぬいぐるみが横向きに倒れているのが目に入った。
視線を感じたと思ったのは気のせいだったのだろうか。
「なんでもない」
秀樹は紀子を抱えたまま歩み寄ると、ぬいぐるみを拾い上げ紀子に手渡した。
「あら? 変ね」
はるなは首を傾げた。
「紀子が寝ていても見えるようにって、あの上に置いておいたのに」
窓際にある低い
「なにかの拍子に転がり落ちたのだろう」
家を出なければならない時間をオーバーしていることに、秀樹は気が付いていた。
「またなにかあったら、近くの病院に連れて行くようにな。会社にも連絡してくれ」
はるなにそう頼むと、紀子を下ろし玄関へ急いだ。
「パパ行っちゃダメ!」
叫びながら紀子が走り寄って来る。
靴を履こうとしていた秀樹にしがみ付いた。
今日の紀子はどうしたのだろう……。
秀樹は、はるなに目配せをすると「紀子。いい子にしてなきゃだめだぞ」紀子の目線の位置まで屈み、頭をなでながら言い聞かせた。
紀子は秀樹を掴んでいたその小さな手を放した。
大きな目に涙を浮かべて秀樹の顔を見つめている。
「パパに行ってらっしゃいしようね」はるなが紀子を抱え上げた。
それでも紀子は、イヤイヤをしながら秀樹に向かって手を伸ばしてくる。
紀子のその愛らしい姿に、秀樹はそばにいたいという気持ちが強くなっていた。
しかし会社を休むわけにはいかない。
出社時刻にはもう間に合わないが、そろそろ家を出ないと自分が運転する電車の発車時刻にも遅れそうだった。
「じゃあ行ってくるよ。はるな、後を頼むな」
秀樹は後ろ髪を引かれる思いを振り払うように玄関を飛び出すと、駅へ向かって走り出した。
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