第1-c話

 波の音にも似た買い物客達の喧騒けんそうが、結の耳に遠く戻ってきていた。


「それにしても凄い人だね」


 悠月はきょろきょろと辺りを見回している。


「う、うん。そうだね……」


 結は悠月にそう答えながら、今日新宿に来たことを後悔し始めていた。


「ねえ。ツズヤって誰?」


「え?」


「ぼんやりしながら呟いてたじゃない。もしかして彼氏?」


 笑いながら小突くように軽く肩をぶつけてくる。


「し、知らないよ。そんなこと言ったの、私?」


 一昨日に視た生々しい記憶が脳裏に鮮明に蘇ってくる。


 何故あのようなモノが視えたのか。あれは警告ではなかったのか。


「悠月……」


 考えがまとまる前に、結は口を開いていた。


「悠月、もう帰ろう」


「なんで? せっかく来たのに」


 結が唐突に帰ると言い出したことに、悠月は驚いているようだった。


「もしかして結怒った?」


「そういうわけじゃないけど……」


 心配そうに尋ねる悠月に、結は曖昧に答えながら別のことを考えていた。


 きっともう間に合わない。


「じゃあどうして」


「だめっ!」


 悠月が理由を訊くのと同時に結は叫んでいた。


 その瞬間、猛烈に突き上げるような衝撃を結は受けていた。間を置かず、立っていられないほどの激しい揺れが二人を襲う。


 壁は軋み、剥がれ落ちた天井の破片が次々と降り注ぐ。


 結は咄嗟に両手で頭を庇うと、縦横に波打っている床へしゃがみ込むようにして姿勢を低くした。


 腕の隙間から目だけを動かして、どこか安全な場所がないか探す。


 せめてなにか掴まれるような物があれば……。そう思ったとき、すぐ後ろにいた悠月の気配が消えた。


「悠月?」


 不安に駆られた結が振り返ると、そこにあるはずの床がなくなっていた。


 ぽっかりと空いた闇の空間に、悠月が吸い込まれるように落下していく。


 結は絶叫していた。


 何度叫んだか判らない。


 落下する悠月を掴もうと、懸命に手を伸ばした。


 悠月も結に向かって手を伸ばす。


 コマ送りのように全てがゆっくりと感じられた。


 背後で男の子が泣いている。右側の大きな壁の破片の奥で、母親が子供の名前を呼びながらふらふらと彷徨さまよっている。そのすぐ近くには、うつ伏せに倒れているスーツを着た男の人。全く動かないから、生きているのかどうかも判らない。


 伸ばした手はむなしく宙をいた。


 悠月は結を見つめながら、徐々にその姿を小さくしていった。


 最後に見えた悠月の顔は、結を心配するときに時折見せる、少し困ったような表情だった。


 目の前で起きたことが信じられなかった。いや信じたくなかった。


 言葉にならない悲鳴を上げ続けていた。


 悲痛な叫び声は、逃げ惑う人々の悲鳴と怒号、そして崩壊する建物の断末魔にのみ込まれていく。


 飛んでくる破片を全身に受けながら、結はもう痛みを感じることができなくなっていた。


 限界を超え、過負荷に耐えられなくなった精神が、自衛のために意識を消そうとした間際。


 結は視たような気がした。


 

 ひび割れた外壁。その境界に開いた穴から覗く真っ白な空と、陽炎かげろうのように浮かび揺らいでいる小さな影を。

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