第1-b話

 一昨日の午後、結は高校の教室で退屈な数学の授業を受けていた。三十人分の机と椅子が並び、そのうち三割程が埋まっている。


 結は目立たない一番後ろの窓側の席を選んだ。隣には悠月が座っている。


 奇妙な模様が描かれた問題用紙。補助線を引くことに気が付けるかどうかで難易度が変わる。気が付いてもどこに引くか、何本引くかでも変化する。余計な箇所に引けば、逆に難しくなるだろうし、延々と不毛な計算を繰り返すことになる。


 制限時間を三十分以上残して課題を終わらせた結は、教室の窓から外を眺めていた。


 あまり広くはない校庭の向こうに片側だけ開けられた校門が見える。門の両脇から左右に低い塀が伸び、その手前には葉を落とした小さな樹が等間隔に並んでいる。


 太陽は真上より少し西に傾き、冬の弱い光が窓外の景色を淡く照らし出していた。


 あれ……?


 塀に平行して走っている車道をぼんやりと見ていた結は、なにかが引っかかったような気がして、ゆっくりと移動させていた視線を止めた。


 違和感を覚えた辺りに焦点を合わせる。


 人も車も動いているものの姿はなかった。


 窓の向こう側は時計が止まっている。そんな錯覚に結は囚われる。


 なんだったのかな……。


 特に変ったものはなにも見えない。感覚だけがどこかおかしい。


 静止した世界の中で、唐突になにかが動いた。結は思考を止めて急いで視線を向けた。


 なんだ……。


 思わず溜息が出そうになる。何故か安堵している自分が少し不思議だった。


 校門から僅かに左にずれた場所に、車道を渡るための横断歩道がある。その横に設置された歩行者用信号機が点滅していた。


 間もなく赤に変わる。


 身体の奥から笑いが込み上げてくる。タネが判ればこんなものなのかもしれない。


 顔が綻びかけたが、そこだけ時間を切り取ったように結の表情が固まった。


 違う。


 やっぱりなにかおかしい。


 次第に顔が強張こわばっていく。


 門の周囲をもう一度確認する。


 動いているものはなにもない。


 そうなにもない……。


 ならどうして……、どうして信号が変わったのだろう?


 気が付かなければただ通り過ぎていく、日常の風景に紛れ込んだ異質な瞬間。


 三年間、登下校のときに何時も利用していたから、そのほんの少しの差異を感じてしまったのだと思う。


 あの信号は押しボタン式なのに。


 結は答えを求めるように、赤く輝いている信号を見つめていた。


 学校を取り囲む塀が世界を分けているように、あの道路にも境界があるのかもしれない。


 内側と外側を遮っている校舎の壁。


 その壁にあけられた窓から、外を覗くことができるように、横断歩道の格子が不可視の壁にあけられた窓なのかも……。


 そんな想像を巡らしていたからだろうか。結は時間という境界の向こう側を視てしまったのだ。


 直視できないほど歪んだ白昼夢のような世界を。

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