155話 しゅうかつ、かいし

 マーティンがいい酒を持っておとずれたのは孫のエマが二十歳になった歳の暮れで、それを俺は孫にあげようと思ったのだが、マーティンはどうやら俺と飲むために持ち込んだらしい。


 孫が一人暮らしを始めてからというもの、俺の再就職欲望(正しくは再就職自体を望んでいるのではなく、『再就職すれば豊富な経験から発揮される有能さで若者にチヤホヤされる』という妄想と現実の区別が難しくなっている)、毎日再就職募集サイトを開こうとしては『鎮まれ、俺の右手!』というのを繰り返していた。


 今では情報にアクセスできる端末を体から遠ざけておくことで対処しているが、そうなるとヒマで、俺は端末を使わない時間つぶしの手段として、お菓子作り(改良の段階なのでネットのレシピはもういらない)や、父の遺したボードゲームなどを用いるしかなかった。


 そんなおりにおとずれた旧友の存在はありがたく、俺はなん回か『いいお酒なら孫にあげたい』とねばったすえに、マーティンと語らう時間を確保する目的で、酒を孫に贈ることをあきらめ、彼を受け入れた。


「っていうか俺が持ってきた酒をそのまま孫に横流ししようとか、お前はほんと……」


 マーティンは俺と同じくすでに七十一歳のはずなのだけれど、口調は若々しかったし、体の動きも健康そのものだった。

 俺が世の七十代より動けるのは若いうちから健康に気づかい運動をしてきた成果なのだから因果がはっきりしているのだけれど、マーティンがこうも健康なのは理由がまったく不明だ。


 本人に健康の秘訣を聞いたら、彼はこう答えた。


「病院に行かないことだな」


 俺は『マーティンの葬儀がいつ入ってもいいように準備しておく』とメモしてから、ミリムとマーティンと三人で酒盛りを開始する。


 持ち込まれたのはたったひと瓶の酒だ。

 それは若い時分ならば一瞬でなくなるような量だったのだけれど、もう数十年単位で酒を飲んでいないこともあって、コップ一杯でさえ、なかなか減らない始末だった。

 いくらかのツマミもこしらえたのだが、そちらもなかなか手がつかず、孫がいた時と同じ分量で作ってしまった料理たちは、どうにも残ってしまいそうな気がした。


「俺にも孫ができてさ」


 マーティンはなんでもなさそうにそんなことをつぶやいた。

 待って待って。

 お前そもそも子供いたの?


「ああ、言ってなかったっけ。式はあげてない。五十代のころに三十代の子とちょっとな」


『ちょっと』ではすまない物語性を感じたのだけれど、マーティンは「まあそこはいいだろ」と話を先に進めたがった。

 全然よくないし、なんなら孫の話よりも気になるのだけれど、マーティンは自分に都合が悪い話はしたがらないので、たぶんこっちとも離婚してるんだろうなあと察した。


「まあまあ、言っても息子は元嫁の連れ子だったんで、孫とは血縁はないわけなんだけど、やっぱ初孫っていいよな。小さい生命、好きだわ」


 俺の知らないところで色々あるんじゃねーよ。

 知っておかなきゃならない前提をまったく知らないせいで、『孫が生まれた』というマーティンが一番語りたがっているであろうニュースに全然興味が持てない。


「養育費払ってた関係で義理の息子のほうとはそれなりの付き合いがあるんだけど、元嫁とはあんま顔合わせたくないから、元嫁のいない時しか孫に会えないのが難点だな」


 とりあえずマーティンに『お前の葬式の時呼ぶ必要があるから』と言って義理の息子の連絡先だけ教えてもらって、あとは彼の語りたいことだけ語らせた。

 言葉の端々からうかがえる俺の知らない彼の歴史が気になって気になってしょうがない。

 たしかに昔、『もうすぐ四十になる男が同年代の男の家の掃除には行けない』ということでマーティンの家の清掃業務を辞めてから付き合いは浅くなったけれど、にしても、そういう節目では連絡をしてくれ。


 衝撃の事実が次々におわされて、おどろきのあまり心臓の鼓動がやばかった。


 七十代の心臓にダメージを与えるな。


「俺はもうね、死ぬ時はそれが運命だと思ってる。俺の心臓が止まったら救急車が来るようにもしてるしな。孤独死が人様に迷惑をかける時代は終わったんだ。これからは一人で死んでもいい……もう、そういう未来なんだぜ」


 ディストピアかよ。

 まあ社会制度が充実している、という意味でいい時代なのは間違いないのだけれど、マーティンみたいにいつ死んでもいいと自分で言ってるヤツの『死』と、なんとしても九十までは生きると決意している俺の『死』とを同列に語らないでほしかった。


 俺は死にたくないんだ。

 だから心臓に悪い話はこれっきりにしてほしい。


「お前の心臓に悪い話がどれかわからん。社内恋愛した相手が同級生の姪っ子だった話とかは大丈夫?」


 お前の人生は大丈夫?

 誰かから刺されて死なない?


「いやしょうがないじゃん。俺のモテ期、五十代だったんだよ。あのぐらいの年齢のころ、なんか妙に若い子にモテてな……俺だってできれば十三、四歳ぐらいのころに十六とか十七とかのお姉様にモテたかったよ。でもしょうがないよ、モテ期ばっかりは。神様の思し召しだもの」


 つまり呪いである。

 そうなるのがもっとも都合が悪いから、あの全知無能存在はそうしているのだ。……マーティンは運勢極振りみたいなところがないでもないのだけれど、それでもなお全知無能存在に困らされてはいるらしい。


 ちなみに彼のどのへんが運勢極振りだと感じるかと言うと、運動も食事制限もしていないのに、七十歳の体が妙にシュッとしているあたりだ。

 お前の細い体つきやらまっすぐな背筋やらは鍛錬によってようやく維持できるもので、自堕落な生活をしてるのに持ってていいものじゃない。


 マーティンを見ていると俺は、理不尽を感じる。


 昔だったらちょいちょい『死ね』と言っているところだ。

 今は冗談にならないので言わないが……


「まあ七十歳は即死圏内だから。俺は死ぬ準備はできてる。お前もしとけよ」


 死ぬつもりはないが、準備はしておかねばならないのだろう。

 終活というやつだ。


『つもりがない』と『可能性がない』はまったく別の話で、もしも俺がこの世界で煙となれないのならば、せめて遺された者たちに迷惑をかけないようにしたい。

 俺が別世界にまた転生することになっても、やはり親族友人に『最期になんてものを遺してくれたんだ』とは思われたくないのである。


 そのほかくだらなかったり『いや、先に教えてくれよ』という感じだったりする話を終えて、マーティンは暗くなる前に去って行った。


 人と会話すると脳が一気に動く。


 お陰でやるべきことが明確になった。


 そう、俺は再就職なんぞ渇望している場合じゃなかったのだ。


 九十を迎えられるとしたって、歳をとってからの二十年はあまりに短い。

 まして八十代後半にもなればまともに頭が動かなくなる可能性がある。


 ならば今のうちから遺言やら身辺整理やらをしておこう。


 そう、俺は――終活を始める。


 さしあたってはデータ収集をし、それを元に終活ですべきことをリストアップしたりすべきだろう。


 久方ぶりに楽しくなってきた。

 でも、その日はしゃべって疲れてしまったので、早々に寝た。


 歳をとると、一日にできる行動量が信じられないぐらいに減る。

 やはり終活は急務だ。こうして俺の晩年をいろどる主な活動は決定したのだった。

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