154話 中二病・老
七十歳を超えておどろいたことは、思いの外ぼうっとする時間が増えたことだった。
職を辞してすでに数年が経つ。孫の大学受験も終わり、一時期は教師役となっていた俺もお役御免となってすでに一年ほどが経過していた。
そうなるとやることがなくなるので、ぼんやりする時間が増えるのは必然だし、覚悟みたいなものはあったのだけれど、それにしたっていくらなんでも、なにもしていない時間が増えすぎだと思う。
これが『タスクを見つけ出せずぼんやりするしかない』時間なら、まだいい。
ところが俺にはやることがたくさんあるのだった。
締め切り的に切迫した作業は全然ないのだけれど、やるべきことがまったく見つけられないというような、そんなことはない。なにせ、老後のヒマな時間に備えて俺は趣味の開発に余念がなかった。数々の手をつけられる趣味が俺の前には転がっている。
そこで俺はウムとうなずき、よしやるぞ、と気合いを入れる。
ところが気合いを入れたあと、なぜだかぼーっとしてしまう。
だらだらとお茶を飲み、孫の帰りを(大学生になった孫は、俺の家から学校に通っている)待つばかりなのであった。
まずいのはわかるのだが、まったく危機感を抱けない。
それは客観的というよりも傍観的な視点で己の人生を見ているのだった。自分の人生に当事者意識が全然ないのだった。
奇妙な心情だ。たしかに俺は生きている。生きているのだけれど、生きているかどうかわからない。
俺は……俺は……締め切りがほしい。
いや、締め切りでなくたっていい。なにか、『時間までにやらなきゃな』と思えるようなものがほしいんだ……
働きたい……
ぼそりと口にした言葉に、自分でおどろいた。
俺は今……働きたいと言ったのか?
というか俺、今……無職じゃん。
あれほど渇望しあこがれた無職に、今、なっている。
実際になってみた無職は死ぬほど(この年齢だと冗談にもならない)ヒマで、かつての俺はどうしてあそこまで無職を志したのだろうと首をひねる。
ああ、そうか、もう、俺は……無職を志した若い日となにもかも違うんだ。
労働に慣らされてしまった。労働なしでは生きていけない体にされてしまったのだ。
もう取り返しがつかない。
若き日、俺は『なぜ、人は働くのか?』と疑問に思っていた。
それはもちろん『お金のため』なのだが、お金のために働いているうちに、いつしか働くことが生活の一部に組み込まれ、労働なしでは落ち着かないようになってしまい、気づけば働くために働いている自分が生まれているのだ。
今も俺はすごく働きたい気持ちだ。
目を細めて教師人生を思い出す。
つらいことも困ったこともいっぱいあったはずなんだけど、それはサッパリ思い出せなくて、なんかいい思い出しか脳裏によぎらない。
ひょっとして……いいことしかなかったんじゃないか?
……危ない。これは洗脳だ。洗脳を受けている。
俺は今、過去の自慢話ばかりする老人たちを思い出していた。彼らは、聞いてもいないのに、自分の人生に一切の汚点も失敗もないかのように、自分の活躍ばかり話していた迷惑な人種だった。
若き日の俺は『よくもまあそこまで自分に都合のいい話をねつ造できるものだ。俺ツエー創作でもやればいいんじゃないか』と思ったが……
そうじゃ、なかったのだ。
彼らは……記憶を失っていたのだ。
いいことしか思い出せない。別に活躍なんかしてなくっても、たいへんな活躍をしていたかのように、脳が勝手に補正してしまう。
自分で自分を洗脳しているのだ。
今、俺がそうだ。俺は百万回転生した経験から、自分の脳さえあまり信用しておらず、『いいこと』しか思い出せない己の記憶を疑うことができた。
けれど妙に記憶に自信があり、『記憶にはねつ造はなく、勘違いもない』と思いこんでいる一般老人であれば、きっと武勇伝まみれで汚点の一切ない自己洗脳したすえのねじまがった過去を信じこみ、孫や若者なんかに語りたくてたまらなくなっていたことだろう。
冷静に自己客観視をした俺でさえ、すでにちょっと語りたい。
転生経験のない『年老いた若者たち』ならば、きっとこの衝動を抑え込むのは不可能だ。
……なるほど、最大の『敵』は己だったのだ。
人類の肉体に仕込まれた数々のバグこそが、この世界でもっとも強大な『敵』であった。
なるべく目立たぬよう、人と敵対せぬよう、自己を客観的に見つつ、先延ばしできる問題は死ぬまで先延ばし……俺はそういうふうに生きて、七十歳を迎えた。
しかし七十歳になったとたん、若者に武勇伝とか語りたいし、そのせいで他者と敵対する可能性が頭をよぎるのは遅れるし、自分の記憶の正しさを妄信しそうになるし、先延ばしでいい問題も『俺ならできる。なぜなら経験があるから』とかいう意味不明な自信によって解決してしまいたくなるのだ。
まさか七十歳になって中二病にかかるとは思ってもみなかった。
経験うんぬん言うなら俺にはすでに百万回の人生経験がある。
それでもどうにもならないからこんなに慎重に生きているのだ。それを、たかだか七十年の経験でどうこうできるはずがない。
……よし、冷静になった。
俺は……無職でいい。
再び仕事をする必要はない。仕事をしないために働き続けた人生だった。そうしていたった無職という境地を再び捨てさる理由などないのだ。
そう頭でわかっていても、俺の中には、再就職の欲望がくすぶっている。
正しくは、『経験を積んだ老人になってからの再就職で、若者にチヤホヤされたい』という欲望がうずまいているのだ……!
くっ、静まれ、俺の右手……!(老人再就職募集サイトを開こうとしている)
俺は、無職だ。
断固として、無職のまま――あと二十年、生きていくんだ。
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