151話 〝呪われし〟〝運命〟の終焉
六十歳も半ばになるといい加減『身の回りの誰が死んでもいい覚悟』が自然と身につくもので、たとえば知り合いの誰が亡くなろうとも、『そういえばあの人はあんな体調だったな』とそれっぽい理由が思い至るようになるものだった。
覚悟や準備という意味では義父や母が逝去したって受け入れられるぐらいのものはある。
悲しみや喪失感を度外視すれば――人間という生き物がそんなものを度外視できないことはすでに知っているが、それでも机上の空論として度外視すれば、誰がみまかろうとも冷静に冷徹に事後処理ができるだろう。
だから俺をおどろかせたのは、カリナの急逝であった。
カリナという女にかんしてはとにかく不健康な生活をしていたという印象しかないが、同時に、不健康なくせに異常なまでに若々しかったという記憶もある。
殺しても死ななそう、というマーティン系の強さ・しぶとさとはまた違うけれど、『ひっそりと永遠に生きそう』みたいな、吸血鬼とかエルフとか、そっち系の『死への遠さ』を感じさせる存在だった。
だからカリナが亡くなったという連絡をカリナの親御さんから聞いた時に、俺は思わず、笑いそうになってしまった。
カリナの死は俺にとって、あまりにも現実的ではなかったのだ。
それこそ笑うしかないような事件である。出し抜けに笑いどころのわからないジョークを言われたかのような、そんな心地だった。
あいつとマーティン以外の全員について俺は『明日死ぬかもしれない』という覚悟を固めてはいたのだが、あいつとマーティンだけは、まさか死ぬなんて、という、これも笑うしかないような心持ちでいたのだ。
まさかこの年齢になって他者の
どうにか絞り出したのは『交通事故かなにかですか?』という問いかけで、それは違うのだという答えをもらった。
カリナ急逝の原因は聞いてしまえば意外性もなんにもなく、不摂生が理由ということだった。
これは元編集者の妻から聞いた話だが、漫画家などのちょっとアウトロー系(これはカリナのイメージだが、世間にはアウトローでない漫画家もいるかもしれない)な職業の人には、若くして亡くなる者も少なくはないらしい。
たしかに芸術方面と考えれば、古い文豪なんかは
『古い文豪』という言葉から彼らの生活スタイルを思い描けば、座りっぱなし、酒びたり、ヘビースモーカー、自殺癖、と不健康さばかりが思い浮かぶ。
カリナは酒もタバコもやらなかったし自殺癖もなかったが、座りっぱなしだし運動が嫌いだった。
前に運動しろと俺が忠告したときには『ジム通い流行ってるし前向きに検討する』という返事が来て、そうして、それっきりだったようだ。
通話口でもわかるぐらいに消沈しているカリナの親御さんから葬儀の日取りを追って連絡する旨などを聞き、ついでに遺品整理の手伝いを頼まれたのでそれを快諾し(漫画家の持ち物はその道の人でないと価値がわからないことが多く、俺はカリナの秘書として親御さんに認識されている)、通話を切った。
食後のティータイムであったので、妙にぼんやりしている俺を心配してミリムが声をかけてきた。
俺はミリムがなんと言っているのかさえ認識できないような状態だったが、なん回か声をかけられるうちに通話の内容について聞かれているのだろうとアタリをつけて、ただ短く『カリナが亡くなった』とだけ述べた。
指先さえ動かせないほどのショック状態から立ち直ったころには二時間ほど経っていたようで、いつのまにかお茶は片付けられていて、目の前にはミリムが編み物をしながら座っていた。
ようやく思考を取り戻した俺は無性に『気になること』ができて、携帯端末をいじり始める。
カリナとは税務の時期以外に直接会うことはなくなったが(税理士は雇っているが、税理士に渡す領収書などをまとめるのに俺の力が必要だった)、それでもメッセージのやりとりはしている。
通話が苦手という彼女とのやりとりはだいたいが携帯端末の中に文字情報として入っていて、俺はそこから、彼女との最後のやりとりを探した。
『この歳で夏祭りきつすぎわろた』
『運動しろ』
それはまだ二月も経っていないほど最近の会話だった。
こうしてチャットルームをながめていると、なにか送ったら返事が来るんじゃないかという気持ちが強くなる。
けれど実際に送らないだけの分別はあった。カリナの携帯端末は今、親御さんが管理しているだろう。そこに、すでにカリナの死を知っている俺からメッセージがとどくとか、あまりにも悪質に思えたのだ。
こうして俺はようやく冷静な思考を取り戻して、ミリムに言う。
葬儀の準備、しなきゃな。
それは自分でもびっくりするほど感情の抜け落ちた声だった。
俺の中でカリナというのがどれほど大きな存在で、彼女が抜け落ちた時の、どれほど多くのものを巻き込んだかがわかるようだった。
もちろん父や義母、祖父母だって大事で大きな存在だった。それはカリナに勝るとも劣らないほどだ。
けれど同世代が亡くなるというのはべつなダメージがあるようで、思考を取り戻しても、肉体が力を取り戻すまでは時間がかかった。
……義母が亡くなってから突如老け込んだ義父。
父が亡くなってから、一気に心が老化したようで、静かになってしまった母。
同世代を失うダメージというのはなるほど人格を変えるほどの威力があった。
今、俺が住んでいるミリムの実家に母を招いた時、往年の母であれば軽い感じでのってきたように思えたのだが、今の母は、父のいた家に残ると言ってきかなかった。
やっぱり思い出のある場所を離れがたいよな、程度に思ったものだが、そうではなくって、たぶん、伴侶を亡くしたショックで『人』が変わってしまったのも、あるのだろう。
ほんと、最近はばたばたと人が死ぬなあ。
気づけばそんなつぶやきをしていた。
まあすぐに『そんなことはない』と理解した。
年齢もあって俺のまわりでばたばたと人が死ぬことが多いだけで、俺が幼いころにも祖父母の周囲はばたばた死んでいたように思うし、俺の青年期を思い返せば、両親が少なくない回数、葬儀に出かけていたような気もする。
ようするに、関心をもって接している相手が、歳をとって、亡くなる年齢に達してきただけなのだった。
これもきっと『順調』ということなのだろう。
『敵』は悪辣な手段をとらず、生命が直接の危機にさらされることなく、周囲で戦争も起こっておらず、俺を巻き込む悪の組織の陰謀もない。
前世があろうがなかろうが俺は劇的なことにはなに一つ巻き込まれていないし、俺を主人公に変わった話が展開していくなんていうこともなかった。
それでも人は死ぬ。
それだから、人は、普通に、死んでいく。
珍しいことに、酒を飲みたくなった。
我が家では飲酒の習慣がないので常備酒は料理に使うようなものしかないから、仕方ないので自家製シロップを炭酸で割ったジュースでも飲もうとミリムを誘う。
彼女はちょっと笑ってから「そうだね」と言い、まだ肉体を動かせない俺の代わりに飲み物の用意をしてくれた。
さびたようににぶい指をどうにか動かしてコップを手に取り、室内灯に透かしてながめる。
これは死者に捧げる
古い友人は夢を叶えて綺羅星のように駆け抜けた。
俺は、ゆっくり朽ちていこう。
〝前世〟からの〝因縁〟が結んだ、〝呪われし〟〝運命〟の終焉に、健康ドリンクを捧ぐ……
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