147話 謙虚と配慮

 不動産とは負債である。


 以前にも考えたことがあったが、世界はやはり『安定』を望んでいる。

 俺も望んでいるし、多くの人も望んでいるだろう――だが、世界視点で語る『安定』と、個人視点で語る『安定』はまったく意味が違っていて、世界視点での『安定』は個人視点で言えば『不変』ということになるのだった。


 地位の向上、収入の向上、あるいは倹約。

 そういったものを世界は嫌う。


 個人の『安定』とは『少しがんばればよりよい生活ができる状況が続くこと』――すなわち『少しの努力で常に昇給、昇進の可能性があり、努力すればそれが確実に叶う社会』なのだが、世界はみんなに昇進されては困るのだ。


 世界が俺たち個人に求めるのは『ずっと同じ家に住み同じ生活をして社会に同じだけの金を安定して流し続けること』であり、これがひどい社会情勢になると『立場も権利も向上させないがもっと多く金を流せ』となる。


 今、社会はそう乱れていないから、俺たちはとられても生活が立ち行き、月々決まった額を貯金できる程度の税しかとられていないが……

 政治が乱れればそのぶん多くの無駄金をとられるのだった。


 そして、金というのは『支払わなければどうしようもない』ところから優先的にとられるのだ。


 不動産なんてその最たるものだろう。

 人は家に住まなきゃどうしようもない。


 こういうことを言うと『路上でも生活するだけならできる』と返してくる中学生が俺の勤め先にもいるのだけれど、身支度、貯金、法律の問題、世間体……『社会生活を送る』ことを考えると、路上生活ではできないことが山のようにある。


 俺は、あるいは人は、『生きていたい』のではない。

『安定し、健康に、生きていたい』のだ。


 死にたいという人の多くが語る『死にたい』が『病気やケガで苦しんでもとにかく死にたい』ではなく『苦しまずにさっぱりと人生を終えたい』であるように、『生活したい』『生きたい』という言葉にも、言葉の前に小さいカッコでなにかが書いてあるものなのだった。


 ゆえに不動産は生活に不可欠であり、これに課される税もまた重い。


 また不動産などの大きな買い物は金銭的にも重いし、どれほど細心の注意を払って購入したとして、俺の運勢ならばなんらかのトラブルに、それも家を建て替えない限り解決し得ないなんらかの、地味で気になるトラブルに遭うに決まっているのだ。


 そこで生前相続だ。


 ミリムの両親も、俺の両親も、家を持っている。


 俺はかつて、俺の祖父母が亡くなった時に、遺された家の取り扱いで親族がもめるのを見た。

 同じ蹉跌さてつを踏まないよう、そしてなにより俺よりあとに死ぬであろうサラや孫のエマになるべく相続の手間がかかるものを遺さないように、俺は親からの家をもらい、死の気配を感じたら老人ホームにでも住み込もうという計画なのだった。


 そういった意図でミリムや義父、両親と話し合いがおこなわれることとなった。

 ある程度の結末予想をしつつ、『ミリムの実家』で集まって話し合った結果、今は義父一人しかいないミリムの家へ引っ越すことに決まった。


「この年齢だからそれはありがたいんだけど、大丈夫か?」


 義父はどうにも俺を気づかってくれているようだった。

 たぶん、介護関連の心配だろう。

 俺の親世代はもう八十代なのだ。そろそろ介護が視野に入ってくる……というかもう介護されてておかしくない年齢でさえある。


 まあ彼らが健康なのは俺がしつこく健康的生活に勧誘していたからという面が大きくもあるので、これもまた俺のリスクマネジメントの成果と言えるのだけれど……

 いかに健康に気をつけていても、人体には限界がある。


 最近の義父は歩くのがめっぽう遅く、立ち上がるのにもひと苦労という様子で、もともと国外旅行などが好きな人だったのだけれど、もう長くそんな旅はしていない様子だった。

 食事を作ったりするのもおっくうなようだが、外食をしたりデリバリーをしたりということも面倒なようで、たまに里帰りしたミリムの作る食事を少しずつ温めながら食べている、みたいな現状だった。


 そんな事情だから、食事のことだけ考えても住み込んだほうがミリムの負担が小さいし、住み込めるなら俺のほうでもできることが増える。

 また、ミリムの実家は俺の実家にも近いので、俺の両親の面倒もみやすいという特典がつくわけだ。


 ……あと、俺ももう五十代半ばなので、これ以降の年齢だと『引っ越し作業』が重苦しいタスクと化す可能性が高い。

 まだ俺の健康状態が運動や食事だけで維持できているうちに、将来継ぐことになるだろう家に住んでおくのはそういった将来のリスクを軽減する意味合いもあるのだった。


 そんなようなことをデータなんかを交えつつ義父に提示すれば、彼はめっきり感情表現のとぼしくなった顔に、久方ぶりにおどろきの色を浮かべた。


「……すごいなあ。レックスくんは昔から安定してるねえ」


 なんか珍獣に対するコメントって感じだった。


 普通を求め続け『平均』『普通』を知りたいと苦心してきた俺は、すっかり『普通じゃないキャラクター』として周囲の人々に受け入れられている感がある。

 まあ『普通』になれたかは怪しいのだけれど、ここまで生きてしまえば関係がない。

『ちょっと変だけど、あいつはこういうやつだよ』というポジションにおさまることができたのは、間違いなく努力の成果と言えよう。


 かくして親族会議は終了し、俺とミリムは義父の住む家へと引っ越す手はずとなった。


 俺はいったんミリムと義父に別れを告げ、両親を家まで送ることとなる。


 道すがら住所変更に伴う煩雑な手続きを頭の中でリストアップしていると、母から声がかけられる。


「そのうち、うちのほうにも住むの?」


 それはなにげなくかけられた言葉ではあったけれど、その言葉で、両親の胸中を知った。

 ミリムの実家に住まうことが決定し、義母がおらず義父が家に一人ということもあり身を退いていた俺の両親ではあったが、内心では、ともに住んでもらいたがっていたのだ。


 謙虚は美徳と人は言う。

 実際にそれで避けられた争いもあったのかもしれないし、『一人きりで過ごしている義父』と『夫妻ともに健在な俺の両親』では、なんとなく義父の側に俺たちと同居するためのより強い権利があるような気がするものだが……


 その結果、黙り込むことで俺の両親だけが心のしこりを残してしまったのには、いかんともしがたい、不満のようなものが感じられた。


『言ってくれればよかったのに』と俺は言おうと思った。


 けれど、俺は黙り込んで、代わりに『わからないな。すまない』と謝った。


 両親と同じことをしている自覚はある。

 こうして俺が抱えてはき出すことをやめた不満は、俺が当然わかるべきであった両親の思いをわからなかったことへの、きわめて自己満足的な罰だった。


 歳をとってもやはり、俺にはまだまだ、人の心がわからない。

 そうしてそれは、データを集めて知識を仕入れて経験を積んでも、『人の心の機微への関心』というものが根っこから抜けている俺には、きっと永遠にわからないものなのだろうと思った。

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