144話 惜別
義母が亡くなったのは孫娘の幼稚舎入園にわきたつとある初春のことだった。
兆候はあったと言えばあったし、なかったと言えばなかった。
義母はもともと病院には定期的に通っていた人だったのだ。重病とかではない。だいぶ前にそこそこの病気もしたが、今はそれも治った。彼女を悩ませていた症状は年齢を重ねれば誰でもかかるようなもので、現代においては薬さえ飲んでいれば緩和されるような、そういうものだった。
だから亡くなった理由は病院に通っていた理由とは全然別で、『風邪をこじらせた』というのが原因のようだった。
年齢を経ると、若いころはなんでもなかったような病気が、命を奪うようになることがある。それは俺も知識で知っていたのだけれど、実際に身近な人がそうして亡くなったことで、改めて実感として心に刻まれたようなかたちだった。
俺は葬儀にまつわる手続きなどを引き受け、ミリムと義父には死者をいたむことに集中してもらおうとした。
しかしミリムはこれを引き受けず、テキパキと葬儀準備を済ませ、弔問客への対応もこなしていた。
悲しくないのか、とは聞かなかった。
俺はもう悲しくたってテキパキ動ける人がいることを知っているし、悲しいからこそせわしなくしていたい人がいるのだということも想像がつく。
感情と行動は必ずしもリンクしない。大人になった俺たちは、泣き叫びたいままに泣き叫ぶことが許されないケースが多すぎて、それに慣れきってしまっているのだった。
葬儀はこじんまりとおこなわれた。
俺の家族からは、俺とミリム、そしてサラと孫のエマが来た。
ブラッドが参列できなかったのは様々な事情をかんがみてのことだ。そもそも、ブラッドとミリムの両親とはさほど縁がない。
まあ、エマも『縁があるか』と言われれば薄くはあるのだけれど、そこはそれ。ミリムの両親はブラッドが来ると気を遣うが、エマが来ると喜ぶので、そういう配慮だった。
そうして、ミリムの母は煙になった。
遠い異国の地で生まれ育ち、この国まで嫁いできた人だった。
故人が亡くなったあとで、故人のことを思う行為を『偲ぶ』と表現する。
俺は語られないことをなにも知らないまま生きていた。
人がわざわざ語ろうとしないようなことをほじくるような野次馬根性がなかったし、人が語らないことに興味を持っても自分の寿命を縮めることにしかならないと、百万回の人生で学習していたからだ。
それでも俺は、今、行ったこともない異国の地に思いをはせ、ミリムの父に、故人との出会いについて聞いていた。
旅行先で出会った小柄で綺麗な人、という印象だったらしい。
若いころのミリムの父はけっこう遊び人だった。仕事の都合で国外に行くことが多く、また、国外旅行は趣味でもあったらしい。まとまった休みをもらっては、外国に行くことが多かったようだ。
海に隔てられた異文化の地である故人の故郷にも、興味本位で向かったらしい。
そこでナンパして出会ったのがミリムの母だった。
そして、ミリムができた。
…………。
話を振ったのは俺だったのだが、話を聞いて、どんな顔をしていいかわからなくなってしまった。
いわゆる一夏の恋みたいなアレだったらしい。
もちろんわかった時にはバタバタしたし、故人側の両親にはすごく怒られたのだが、どうにか了解だけはとって、故人を連れて帰国。そこからまたバタバタと手続きを踏んで故人を帰化させ、夫婦でこの地に骨をうずめることにしたのだとか。
目の前にある祭壇には故人の写真があって、そこにはどこか幼さを残した、かわいらしい老婆の笑顔がある。
清楚な印象の黒髪美女が、綺麗に歳を重ねた姿、という印象だったのだが、なんかもう、直視できない。
『聞いてしまってすいません』と謝ることもできずに俺は固まった。
人に歴史ありとは言うのだが、俺の知るミリムの母は、外国に来たことを完璧に受け入れている感じだったし、ミリム父のほうも、精悍でまじめな印象としか思っていなかった。
どうしよう、葬式のムードが消え失せた。
夜中、ミリムの実家にある故人の祭壇前で、俺たちは沈黙する。
ミリムもたぶん知らなかった出生秘話だった。しっぽの動きでわかる。
けれど義父は、俺たちに、しんみりと、言うのだ。
「あの人以上の女性とは、きっと、巡り会えないと思ったんだ」
運命というものを、俺は信じない。
だから、運命を信じ、それをつかむために生きた男の言葉は――
実際に信じた運命に報われ、最期まで一人の女性を愛した男の言葉は、予想もできない角度から俺の心を殴りつけてきた。
七十代も後半にさしかかり、すぐにでも八十代になろうというミリムの父は、洒落ていて、姿勢もよくて、『運命の出会い』を語るのが様になる老人だった。
「……いい葬儀だった。私の時もお願いするよ」
そう言って笑う、年齢のわりにはがっしりした体格を持つ彼に、俺は姿勢を正して『はい』と答えた。
彼は笑った。
俺は、まだ祭壇にある妻の遺影を見て動こうとしない彼を一人にしてあげるべきだと考えて、その場を立ち上がる。
ミリムは残るべきか迷うそぶりを見せたが、俺とともに部屋を辞することにしたようだった。
部屋から出て、扉を閉める前に――
「まさかお前が先とはね」
笑うような泣くようなそんな声が、聞こえた。
一生忘れないような、複雑な声音だった。
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