142話 釣り場にて

 隠居後の人生というのは一つの課題で、職業をなくしたあとになにをするかは常に考えている。


 通常であれば『のんびり趣味でもして生きていく』となるのだろうが、あいにくと俺には趣味というものが存在しない。


 もしも『余暇に優先してこなす事項』を『趣味』と定義するならば、俺にとっては生きることが趣味だった。今も趣味だ。ずっと趣味だ。生きる以上の優先事項は、俺にはそんなにないのだった。


 だいたい『趣味』なんていうのは人生に余裕がある者のもつべきものだ。

 生きていくだけで精一杯の俺が持ってもいいものではない。


 そう、思っていた。


「塾の経営をやめてみると、案外、時間を持てあますんだ。仕事をしていた時は毎日いそがしくて、仕事をやめたって『余裕ができる』程度だろうと思っていたんだけれど、実際は、仕事と仕事のために使っていた時間がごっそりと空いて、ちょっと戸惑うんだよ」


 七十歳も半ばを超えた父の運転で釣りに来ている。


 父の趣味は釣りのままだった。かれこれもう、数十年は釣りを続けているだろう。

 道具がそろい、魚のさばきかたを覚え、釣り場に知り合いも増えた。

 同じような年齢の釣り仲間と釣果を比べ合ったり、『釣れませんね』なんて笑ったりする。


 父は間違いなく釣りを趣味にしていた。

 けれど、父は、実際、釣りがそこまで好きではないのだと述べる。


「なんていうかね、他にないんだよ。僕もたいがい仕事人間だったから、趣味を増やすことにあまり熱心ではなかったんだ。……ああ、うん、釣りは好きじゃあない。釣りでできた仲間と話すために、釣りをしている感じかな」


 父はそれで言葉を止めて、しばりぼんやりと糸を垂らし続けた。


 釣り場には人が全然いない。これは、今がシーズンではないというのが理由だ。

 それでもちらほらといて、俺は、父の知り合いだという人たちと軽く世間話をしたりした。


 たしかに彼らは釣りそのものよりも、会話を楽しんでいるふしがある。

 この釣り場は、釣りをする場所という以上に、寄り合いの場所みたいになっていて、中には釣り竿を固定したままボードゲームをしている人などもいるぐらいだった。


「……そうだ、そうだね。人は『行為』に夢中になり続けることはできない。『行為』はすぐ飽きる。けれど、『人との付き合い』はいつまでも続くんだ。『行為』によってできた『人との付き合い』が、いつしか『人との付き合い』のために『行為』をする、というところへ落ち着くんだよ」


 長い長い沈黙は、シンキングタイムだったようだ。

 最近の父は不意に長く黙ることが増えて、もともとの顔が神経質そうなのもあって、唐突に怒ったのかと勘違いさせられることもあった。

 けれど彼の沈黙はどうにも思考時間らしい。……目に見えて、思考時間が長くなっている。


「ただ、まあ、車がないとここに来ることはできないし、そろそろ、僕も別な趣味を探さないとね」


 最近、運転に不安を覚えているそうだ。

「今日はお前を乗せるのでだいぶ緊張したよ」と父は疲れたような顔で笑った。


「あいつは旅行が好きだから、体が動くうちに、どこか遠くへ連れていってやりたいね」


 不意に言われて誰の話かと思ったが、どうにも、母のことを語っているようだ。


 プレゼントしようか? と俺は言った。

 父は笑う。


「いやあ、そのお金は、孫のために使いなさい。僕もあくせく働いてきたからね。夫婦で旅行に行く資金ぐらいはある。孫というのはけっこう、お金がかかるものだよ。孫が望まなくても、祖父としてはなにかと与えてやりたくなるからね」


 ああ、うん。わかる。

 すでに俺もいろいろなものを孫に与えているのだった。


 なにせまだ一歳にもならないのだから、孫からの要求なんかあるわけはない。

 しかしそれでも、俺は孫への愛情を示すのに『プレゼント』というかたちをとりたがる自分がいることを知っている。


 俺が子供のころ、祖父母がよくお小遣いをくれたり、おもちゃを買ってくれたりしたが、あれはこういう心境だったのだな、とようやくわかった。

 愛を金で示す――と述べればそれは、なんだかなあという感じなのだけれど、実際、いつもそばにいるわけでもなし、孫の親のように孫に接するのも遠慮があり、結果として、間接的に愛情を示すためには『金を払う』のが一番だという結論になるのだ。


 そういえば、俺の両親は、彼らにとってのひ孫にまだ会っていない。

 機会を設けようか? と提案する。


「曾祖父の立場ででしゃばるのもね。そうだな……ひ孫が歩けるようになって、多少の言葉を覚えたら、会わせてくれるとありがたい。そういう目標があると、それまでなんとしても生きていかなきゃという気持ちにもなるしね」


 七十歳半ば。

 それは、俺が若いころに思い描いていた『七十歳』よりも、相当元気で、健やかで、しっかりしているように思えた。


 それでも、当人には思うところがあるらしい。

 彼の発言はすべてが『死』を意識していて、どう人生をたたもうか、ということに意識の多くが割かれているように思えた。


 だから俺はたずねた。

 次は、なにをするの?


「次?」


 運転がこわくなってきて、釣りという趣味ももうおしまいかと言っていた。

 だから別な趣味を探すと言ってたじゃないか。

 次は、なにをするんだい?


「……うん」


 父は黙って釣り糸を垂らし続ける。

 それは長い、長い長いシンキングタイムだったのだろう。

 日がのぼり、朝靄が晴れ、昼になってもまだ、父は黙って考え込んでいた。


 その日は釣果もなく撤収することになる。

 帰りの車の中で、父は運転席に座り、ようやく口を開く。


「……ああ、また勉強でも始めようかな。僕は人に教えることを仕事としていたけれど、それはきっと、自分が学ぶことが好きだったからだと思う」


 学者にでもなればよかったかな、と父は笑った。

 俺はなんとも言えず、走り出した車の中で、流れ始めた景色をながめる。


 帰路も半ばにさしかかったころ、俺はようやく、『それはいい思いつきだ』と言えた。

 父はわずかに笑う。


 景色が後ろへ流れていく。


 たぶん、こうやって二人で車に乗るのも、あと何回もないだろう。

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