127話 モラトリアム

 父に『経営する私塾を継がないか』という話をもらったのはその秋のことだった。


 それは実家に帰って夕食をとったあと、テーブルで父と二人きりになったタイミングで、唐突に語られたことではあった。

 けれど、俺はおどろかず、父の話に耳をかたむけることができた。


 父ももう七十近いこともあって、最近、とみに体力の衰えを感じてきているらしい。そこでそろそろ隠居をしたいということで、俺に話を持ってきたのだった。

 とはいえ、俺がこの話にのったらすぐさま引退というわけでもないらしく、


「ほら、レックスは事前準備をしたがる子だろう。だからね、こういう話は本格的に引退する二、三年前ぐらいにはしておくべきなんじゃないかと思ってね」


 という、俺の性格をよく熟知したタイミングでの申し出だったようだ。


 俺は先ごろ教頭に昇格したばかりで、教職としては昇進ルートに乗っていると言える。

 なにより『子供に勉強を教える』という意味で塾講師と教師は近しいのかもしれないが、父から聞く塾講師業務と俺の知る教員業務はまったく違うもののように思えたし、元教師である父もまた、『違う』という印象を抱いていると教えてくれた。


 違いについては実に様々な要素があった。

 それは『どちらかがどちらかの上位互換だ』というような単純な話ではなくって、『こういう性質の持ち主にとっては、こっちのほうが向いているかもしれない』という、個々人の向き不向きの話になってくる。


「継いでほしいと打診しておいてなんだけれど、僕としては、レックスは教師のほうが向いていると思う。塾はね、学校よりもなんていうか……『特化』してるんだ。学校は生活の一部として、勉強したい子も、したくない子も来る。勉強以外のところに『その場にいる理由』を見いだす子が多数だ。けれど、塾は、基本的に、勉強しに来る。誰の意図かはご家庭の意向によるけれど、みんな、勉強をしに、あるいはさせられるために、来ているんだ。だからね」


 と、父はそこまで言ってから、いったん言葉を句切った。

 しばし、考えるような、あるいは『言うべきかどうか悩んでいる』ような、時間をおいてから、


「君みたいに、『人間』が好きな子には、塾講師は向かないと思う」


 ……それは。

 なんとなく、父が言いよどんだ理由がわかる言葉だった。


 今の一言は、俺が『塾を継がない』と決定するに足る発見だった。


 俺は『人間』が好き。


 人間の、『人間らしい』、無駄だったり、特化していなかったり、余分だったり、そういう部分を、なんだかんだ言って好きなのだという、俺自身も発見していなかった、しかし言われてみれば思い当たるフシのある真実に気づかせてしまった。


 俺自身が『無駄なく長生きしよう』と志し続け、生き続けているのが、なによりの証左だった。

 本当に無駄のない人間は『無駄なく生きよう』などと志す必要がない。

 本当に根っこから『無駄がないこと』を愛する人間は、『無駄をなくそう』と己に言い聞かせ続ける必要は、ない。


 父の今の言葉は、俺の正体を明らかにした。


 そして、同時に――


「レックス、僕はね、あんまり『人間』が好きじゃないのかもしれない」


 父の正体をも、明らかにしたのだった。


「人間って、わからない部分が多いだろう? 僕は『理解できないもの』に対する恐怖が、たぶん人より強いんだ」


 俺だってそうだけれど、それでも俺は、人間の『理解できない部分』を好きなのだろうと、受け入れられた。

 長くつきあいが続いている連中ほど、『わからない部分』が多い。

 非合理だったり、不条理だったり、あるいは霧の中だったり。


 謎の多さが、好感度の高さだった。

 ……俺はきっと、謎解きを楽しんでいるし、その謎を提供してくれる者のことを愛しているのだろう。


「……僕が勉強好きだったのも、この世の暗いところをなくしていく感覚が肌に合っていたのかもしれないね。そういうところ、君は僕に似てしまった」


 そうなのかもしれない。

 俺の個性は百万回の人生ですでに醸成されていた。


 とはいえ、『俺はこういうヤツです』という定義は、この世界の言語で行なうことになるし、己を言語化するときの言葉選びには、育った環境というのが大きくかかわってくる。


 俺は、己の性格を、両親や学校から吸収した言葉で定義し、言語化した。

 ならば今の俺の性格は、たとえこの人生の前に百万回の人生があったとして、現在の両親の影響を色濃く受けているのだろうし――

 受けていたいと、そう思った。


「君の母親はね、とても素敵な女性だよ。わからないことを、わからないまま楽しめる。僕には、それがうまくできなかった。……君の母は本当に、『教師』向きだった。僕と違ってね」


 父は笑っていた。

 俺から見ればどこか寂しさを感じる笑顔だったけれど、父の側にはそんな意図はなかったのかもしれない。


「レックス、君の性格は母親に似ている。でも、君の性質は、僕に似ている。……うん、なるほど、教師向きだという結論にしか到達しないな。けれどまあ、いちおう、返事だけはもらいたい。向いているもの以外になったっていいしね。塾の経営、継ぐかい?」


 俺は、継がない、とハッキリ言った。


 なんてエモーショナルな決断なのだろう。

 もっと熟考して調査して検討してすべき決断だった。間違いなく人生の行く末を決定するような問いかけだった。


 なのに俺は、こうして断ったことになんの後悔もしていないどころか、むしろ、胸のすくような快感さえ覚えているのだ。

 父により発見させられた『自分の本当の性質』は、俺の心の一番外側を覆っていた黒雲を晴れさせ、常に迷いのつきまとっていた俺の人生に、一つの確信をくれたのだった。


 俺は、教師に向いている。


 それはもちろん『塾講師よりは』という意味なのはわかっている。

 それでも、父からもたらされた言葉は、きっと俺が死ぬまで、俺の胸の中で優しく俺の人生を照らす光になるだろうと、そう思えた。黒雲の隙間から差し込む、明るいきざしのように、思えたのだ。


「ああ、安心したよ。実に予想通りだ。……まあ、少しばかり寂しいけれどね」


 人の『わけのわからなさ』を恐怖する父は、ため息とともに笑った。

 安心と寂しさを同居させる父を見て、人の『わけのわからなさ』を好む俺も、笑った。


「塾講師をやめたら釣りに出る時間が増えるかな。でも、最近は運転もこわくてね。なにをしようか。ああ……ふふっ」


 突然、父は吹きだした。

 俺はどうしたのかと聞いた。


「いやね、家の中でする趣味はなんだろうなと考えたら、僕の場合、『勉強』をしそうだなと思ったんだよ。中高生が見るような教科書を見て、参考書を見て、自分ならどんな受験問題を想像して、どういうふうにみんなに教えるか、そう考え続けそうだなと思ったんだ」


 それは実に父らしすぎて、俺も吹きだした。


「……まだもう少しだけ、続けてみるよ」


 父はそうつぶやいて、俺は『そうか』と答えた。

 あとはもう会話はない。


 無言のまま、向かい合ってすわったまま、俺たちはただ、そこにいた。


 どんどん速度を増している時間の中で、久しぶりにゆったりと過ごせた気がした。

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