126話 空漠のある空間
サラが一時的に帰宅したのは彼女が十六歳になった夏のことだった。
五月の彼女の誕生日周辺やそのほかの休日など帰宅する機会はいくらでもあったはずだった。
それでも彼女は夏になり学校が長期休暇に入るまで、一度たりとも帰ってこなかったのだ。
「だって目指してるのは無職だからね。しっかり技能を身につけて自立しないと」
俺は不慣れな環境に身をおいても折れることのなかった彼女の信念に感動などしたのだが、それはそれとして『おじいちゃんおばあちゃんには、無職を目指してることは内緒にしておけよ』と言い含めた。
俺の両親は年齢なりの価値観を持っている。
七十近い彼らにはサラの新しすぎるあり方を受け入れる受け皿がない。
……まあ、それでもがんばって受け入れようとはしてくれるだろうけれど、もう若くないので、精神的な衝撃をあまり与えたくないという俺のエゴもあった。
ともあれ――サラ、帰還。
この報せを受けた親族はあらゆる歓迎の準備をしてサラを出迎えた。
我が両親とミリムの両親のあいだでおこなわれた歓待合戦は熾烈を極め、サラは滞在期間の一週間だけで三キロほど太ったと嘆く羽目になった。
嵐のような時間が過ぎて、いよいよサラは学校へと帰ることになる。
……ああ、まただ。
振り返ってみればサラがいた時間は二日か三日ぐらいに感じられた。
それだけじゃない。俺がかえりみたあらゆる時間は、実際の日数よりもずいぶん短く感じられるようになっていた。
一年というのはこれほど短かっただろうか?
四十年というのは――こんなにも、短いものなのだろうか?
この先の五十年を思えばそれは途方もない時間に感じられるのに、振り返った四十年はまたたくように過ぎている。
その時間感覚の齟齬について俺はサラに警告めいたことをしようと思ったのだが、うまく言葉でまとまらず、サラを見送る朝は早々におとずれた。
大荷物を持った彼女は、いつのまにか『大人の女性』へと片足を踏み入れているように見えた。
振り返った思い出の中の彼女はまだよちよち歩きで、オレンジジュースを飲んではびっくりしたような顔をして俺を見て、床に這うようなよくわからないポーズでしっぽをくゆらせながら笑っていた。
ボンレスハムのようだった腕はしゅっとしていて、赤ん坊から幼児期にかけてとはまた違った種類の柔らかさを秘めているように見えた。
背は、もう、ミリムより高い。
ミリムが小型の猫ならば、サラはどこか豹のような鋭いシルエットをしていた。
「お父さん、お母さん」
彼女は言う。
俺はなぜだか、おどろいた。……少しだけ過去を振り返れば、サラはまだ舌足らずに俺たちのことを呼んでいた。言葉だってうまくなかった。
それが今は、こんなにもハッキリと、俺たちを正面から見て、お父さん、お母さんと俺たちを呼ぶのだ。
嬉しいのか、寂しいのか、わからない。
もてあました感情が胸の中で暴れて、呼吸が上手にできなかった。
「じゃあ、またね。次は聖女聖誕祭かな」
俺は――なにかを言いたかった。
でも、うまく言葉にならなくって、とっさに、彼女が去らないように引き留めるためだけに出た言葉が、『学校では彼氏とかできそうか?』という、俺が子だったら親に聞かれたくない質問だった。
「私の養い手はまだ見つからないかな」
サラの人格や信念がはっきりしていたから俺の質問は大惨事を引き起こさずにすんだけれど、これは、嫌われても仕方のない質問だったなと思う。
中学生を普段から相手にしている――していた俺は、彼ら彼女らが大変ナイーブであることをよく知っているし、それに配慮した言葉がとっさでも出るように自分を調整してもいる。
だというのに、娘には、それら調整がうまく働かない。
もどかしさの中、どこか消化不良の中、娘が発つ時間がついにやってきた。
必要事項の質疑応答をすませるミリムの横で、俺はただ、黙って笑っていた。
「じゃあ、今度こそまたね」
去って行く。
引き留める言葉も、理由もない。
なんとなく寂しさを残したまま、彼女はまた、彼女の世界に旅立った。
俺は隣のミリムを見ずに言う――入学の時は平気だったのに、この別れはなんだか、寂しいな。
「たぶん、入学式の時はバタバタしてたからだと思うよ」
そうかもしれない。
ミリムはいつでも、俺のふわふわした感情を冷静にまとめてくれる。
彼女自身の感慨はどうなのか、表情からはわからない。
けれどしっぽがこちらに寄り添っているので、きっと、ミリムも寂しいのだろう。
「……結婚したらどうなるんだろうなあ」
それはどうやら、俺のつぶやきだった。
言い終えたあとで、そのことばが自分の口から出たことにおどろく。
「その時はその時だよ」
ミリムの答えに、そうだな、と同意する。
……かつて、俺はあらゆるものへの準備をしようと息巻いていた。
奇襲への警戒だった。準備こそが精神と肉体を守る唯一の対抗手段だと信じていた。今だって、信じている。
けれど、この歳になって、『どうしようもないことはある』という、一種のあきらめの気持ちを抱いていることに気づけた。
無計画に未来に丸投げするのではなく、俺ごときの計画性では未来への準備は不可能なのだと、そういう気持ちになっているのだ。
俺たちはしばらく立ちつくしてから、家に帰る。
……ふと、懐かしさがよぎった。
一人暮らしをしていた。
二人暮らしになった。
その生活は楽しかった。静かだけれど、安らいだ。
三人暮らしになって――
二人暮らしに戻った。
この生活は楽しく、静かで、安らぐけれど、どこか寂しさもある。
サラという存在が抜けた空気の中には見えない無数の空漠があって、ふと家の中でその空漠とすれ違うたび、俺はここにいない娘のことを思うのだ。
俺の両親は、どうやってこの空漠をやり過ごしているのだろうか。
それとも、ただ耐えているだけなのだろうか。
……夏は長いだろうけれど、俺の主観的にはきっと、あっというまにすぎるのだろう。
それでもなお、冬はまだまだ、遠そうだった。
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