116話 仮面をかぶるころ
小三男子に『おとうさん』とか呼ばれてキレそう。
『怒り』によく似たもやもやを抱えたまま、激動の『娘の彼氏が毎週くる一ヶ月』が過ぎていった。
その期間中の俺はうまく『親しみやすい友達のお父さん』というペルソナをかぶれていたと思う。
人は、内外に己の正体を偽りながら生きている。
内外に、だ――他者にはもちろん、己自身にも、己を偽ることがある。
もしも俺が初等科三年男子であれば、娘の友達に『おとうさん』とか呼ばれたらキレ散らかしてケンカを始めることだろう。
だが、俺は大人というペルソナをかぶっている。
大人が小三男子とケンカするのは、デメリットがあまりにも大きい。
世間は子供の味方であり、先に手を出したほうの敵である。どれほどの侮辱を受けても、子供相手に先に手を出した大人は獄中への特急切符を切られるさだめなのだ。
だから俺は言い訳で心を
人は成長の過程でいくつものペルソナを手に入れていくものだ。
しかも知らぬまにそれらペルソナは、まるで産まれた時から俺の皮膚の下にひそんでいて、成長とともにだんだん体になじんでいったものであるかのように、無意識のうちに自然と選択されるものになっていっていた。
娘の友達(彼氏ではない)に『おとうさん』呼ばわりされた時、俺の本性と呼べるものはたしかに怒りの声をあげそうになった。
けれどまるで出て行くタイミングをはかっていたかのように『父親』のペルソナがすっと俺の顔や心に張り付き、娘の友達(彼氏ではない)に理解ある優しい『友達の父親』めいた態度をとったのには、俺自身、おどろかされたものである。
こうまで見事に内心と態度を分けられるようになったのか、と俺は自分で自分がおそろしくなった。
そう考えると、子供は無垢なものだ――好意はそのまま好意だ。信頼はそのまま信頼だ。『状況の要請に応じてペルソナをかぶる』ということがまずない。
うちに来た男どもも、振り返ってみれば、みんなかわいいもんだった――裏表のない好意であふれていた。性を感じさせない、年齢相応の、幼い恋愛感情を隠そうともしなかった。
実際に家に連中がいた時は『どうにかして神隠しをおこなえないか』と思案したものだったが……
こうして過ぎ去ってみると、『また遊びに来させてやってもいいかな』ぐらいには思えるようになっている。
というかまあ、なに?
普段娘とできない遊びができて、俺も楽しかったっていうかさ。
言わずもがな俺は定時に帰るタイプの学校教員なので、娘の友達が家にいるあいだに帰ってくる。
そうしてあいさつがてら彼らと遊んだ記憶を振り返れば、己自身が童心にかえり、心が洗われるかのような、そんなみずみずしい輝きに満ちている気がした。
だから俺はサラに問いかける――彼氏たち、まあ彼氏じゃないけど、今度はいつ来るって?
するとサラは携帯端末を見て、淡々と告げた。
「ジーンくんは食べ方が汚いから呼ばない。アランくんはゲームに夢中すぎたから呼ばない。ブラッドくんはなんかだめ。コンラッドくんは来るかもしれないけど、優しくないからあんまり呼びたくない」
えっ? 今、なにを見ながらしゃべってるの?
「みんなの態度を一覧にしてまとめたの」
……どういうこと?
「おつきあいする人、一人にするなら、いい人がいいから。データにしてまとめて、ポイントつけてるの」
その言葉を聞いた時、俺の背筋にすさまじい寒気が駆け抜けた。
そして冷や汗が吹き出す。
えっ、サラ……えっ、お前、だって、みんなと遊んでるとき、けっこう楽しそうだったじゃん……?
あんなはしゃいでた裏で、そんなポイントとかつけてたの……?
「あれはつきあいだからー……」
九歳女児は物憂げにため息をついた。
超こわい。
俺は今まで娘のことを『かわいい』『愛しい』ぐらいにしか感じたことがなかった。
きっと将来、どんなに娘が大きくなっても、『かわいい』ぐらいにしか思わないもんだろうと思っていた。
けれど今――俺は、娘が、おそろしい。
っていうか女の子全体がこうなの? わからない。俺は相変わらず女の子のことが全然わからない。ミリムが実家から帰ってきたら聞こうかと思う。
えっ、ていうか……どうしよう、『こわい』以外の感情がない。
点数? 遊びに来た彼氏に点数とかつけるの? しかもデータにしてまとめてる? なんだその……いやまあ変なところで一覧表とかつくるのが『俺の娘』って感じがするんだけど……
ここで俺の口をついて出そうになったのは、『その点数つけるのはみんなやってるの?』とか『じゃあ彼氏たちとはお別れする?』とか、そういうことではなかった。
『パパはなん点?』
そんな質問が今にも口をついて出そうになる。
しかし俺は思案した――点数いかんでは俺の心に一生消えない傷がつくことになる。
知りたい。
その欲求は、常に俺の中にあった。俺の人生は『知らないことを知る』ことによって安寧を得てきたと言ってもいい。
『知ること』は俺の人生における命題だった。この世の暗い場所を知識の光で照らすことこそが、俺の足場を固め、今の人生をかたちづくっていると言っても過言ではない。
だが、世の中には『知りたいが、知りたくない』ことがあった!
俺は迷いに迷う。
人生で――百万回と一回の人生で、これほどまでに俺を惑わせた選択肢があっただろうか?
『娘からパパへの点数』!
ああ、絶対に聞きたくない! でも、聞かないではいられず、きっと聞かないことにしたならば、毎夜毎夜悪夢にさいなまれ、俺は永遠に安眠ができないに違いがないのだった!
一方でもしも低い点数を言い渡されたならば、きっと俺は娘の前でおこなうすべての行動を迷い、おそれ、いつでも娘の目におびえて過ごさねばならなくなるだろう!
聞かぬべきか、聞くべきか、それが問題だ。
聞かずにすませ心の中に永遠に消えぬ煩悶を抱えながらも人生をやり過ごすのか、それとも質問し点数を言い渡され、それいかんによって娘に気に入られるような生き方を意識させられるのか、いったいどちらが……
……よし、聞こう。
俺は二つの選択肢の先に己にかかるストレスを計算し、『聞く』ほうが、どのような状況であろうともストレスが低いと判断した。
サラ。
パパは――いったい、なん点なんだい?
「……」
サラはじっと俺を見る。
そして、わずかな、けれど俺からすれば永遠にも感じられる時間のあと、笑った。
「パパはパパだから、点数はつけないよ」
俺は深い安堵に包まれた。
そうか、そうだよな。パパはパパだもんな。点数はつけないよな。
よし、ああ、ええと、これは前々から決めてたことで、今の答えとは全然関係がないんだけれど、今晩はごちそうにしようか。
なんとなくお祝い気分だしちょうどいいよな。
「うん!」
じゃあ宿題とかすませてらっしゃい。
娘が元開かずの間、現在は彼女の個人部屋へと駆けていく。
その小さな後ろ姿を見送って、パタンと部屋の扉が閉じる音を聞いて――
ふと、『ペルソナ』という言葉が、再び頭によぎった。
……その意味はわからない。きっと、さっきまで考えていたことをふっと思い出したのだろうと思った。
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