115話 刺客
それは予期せぬところから這い出てくる刺客のようなものだった。
情報収集を欠かさない人生を送ってきた。
恐怖していたからなのだった。『未知』というのが俺には、人生に差す暗い影のように思われてならなかったのだ。
知らないことを可能な限りなくして、人生という道行きの暗い箇所をなくしていくのを、俺はたゆまずやってきたつもりだった。
それでも意外なところに影は残っていたのだ。
それら影は意識の死角にあって、たとえば俺がちょっと『安心』の上にあぐらでもかこうものなら、真下から這い出て俺を串刺しにする機会を狙っている。
俺はそういった影におびえ続けて生きてきた。
そうだ、片時だって警戒を怠ったつもりはない。けれど、人の精神はもろい。
いつだったか思った通り、この世界の人類の精神は『常にすべてを警戒する』ことができるほどの頑強さを備えてはおらず、刺客は決まってフッと警戒を緩めた瞬間に、思いもよらぬ場所から現れるのだった。
ある日、娘の口から飛び出した言葉が、俺の心を粉々にするかと思われる勢いでたたきつけられた。
「おうちに彼氏呼んでいい?」
絶望に姿かたちがあるなら、きっと小学三年生男子の形状をしているに違いがなかった。
そう、絶望だ。娘の口から語られる『彼氏』という言葉は、俺にとって絶望そのものだった。強いストレスを浴びないように警戒をおこたらない俺に、突如として撃ち込まれた天空からの
しばらくのあいだ、心身の麻痺によりちっとも動けなくなる。呼吸は忘れていた。鼓動さえ忘れていたかもしれない。
『彼氏』というそんなに珍しくもない言葉には、俺の生命を一瞬以上の時間止めるだけの威力が秘められていたのだ。
俺は『彼氏』という言葉を禁止しようと強く思った。
政治を意識した。もしも俺が独裁者ならば、彼氏という言葉の使用を禁じたうえで、権威の及ぶ範囲にいる十歳以下の男児を皆殺しにしろと命じたかもしれない。
あきらかな過激思想はそれだけ強いストレスが与えられている証拠だった。
打ちのめされて未だ麻痺を続ける意識の中でヒーリングミュージックが流れ始める。これは俺が強いストレスを感じて我をうしないかけた時に流れるように設定しておいた、アンナさんの作曲した音楽だった。
俺はようやく麻痺から立ち直る。
脳内には未だ音楽が流れ続けている。深呼吸をしてしばし妄想の中の音に身をゆだねた。
そのあいだ、精神に防壁を重ねていく。
その防壁は魔術的なものとかでは全然なくって、ただの理論武装にしかすぎなかった。
『今時の女の子なんだから彼氏ぐらい珍しくもないさ』
『どうせ気の迷いなんだからすぐ別れる』
『そもそも娘をいつまでも手元においておくっていうのは親のエゴだ』
『成長が早いと喜ぶべきところだ』
――様々な言い訳を脳内で構築して、俺は風の前の塵めいた、頼りない己の心を
十全の備えをしたうえで、俺は再び娘との会話を試みる。
わかった。いいよ。いつ来るの?
「えっとね、ジーンくんが来週で、アランくんがその次の週で、ブラッドくんがその次で、コンラッドくんがその次」
えっと、誰が彼氏?
「みんな」
ぐはああああああああああ!?
俺の精神防壁は砕け散った。
えっ、待っ、早っ、ちょっ、そっ……
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――自己修復シークエンスを開始します。
精神フォルダ『レックス』の項目を解凍。自己再現を開始しました。
再起動まで十、九、八、七、六……
レックスの人生を再開します。
「……パパ?」
私はレックス。サラの父親だ。
……ハッ!? 精神が砕けた!?
危なかった。かつて情報生命体だった時の経験が活きた。廃人になるところだった。
この世界では基本的に『脅威』に巡り遭うことが少ないが……
まさか人生で初めて『死』を間近に見たのが、娘からの言葉による攻撃だとはな。
精神の再起動を終えた俺には、記憶にちょっとあいまいなところがあった。
俺は状況を確認する――すまないサラ、なんの話をしてたっけ?
「サラの彼氏をおうちに呼んでもいい? 四人いるんだけど」
お前九歳にして乙女ゲーのヒロインみたいな交友関係してるな。
どうしよう、俺はどうしたらいいんだろう……そもそもサラよ、なぜ四人も彼氏ができることになったのか、パパに教えてほしい。
「なんか……みんなサラのこと好きって言うから?」
九歳ってどうなんだっけ?
こんな幼稚園児が結婚するみたいなノリで彼氏できる?
彼女が大人側なのか子供側なのか、俺は判断に迷っていた。
幼稚園児の婚約みたいなノリだったら彼氏なんぞダース単位でいたってかまわないが(かまわないとは言ってない)、もうすぐ年齢が二桁だしな……普通に四又判定しちゃっていいんだろうか……?
わからない。俺はもう女の子がわからなくてこわい。
俺は人生に暗い場所をなくしたくて努力してきた。知らないことを知ろうという労力をおしんだことはなかった。わからないことはアドバイザーさえ
俺のころクラスで四又してた女子とかいなかった気がするんだが、時代は進むし、時代が進めば言葉の定義も変わっていく。
ひょっとしたら『彼氏』という言葉に俺が思うような重い意味はなくて、『ちょっと仲のいい異性の友達』ぐらいの意味合いなのかもしれない。
しかしうちのサラは純粋な子だし、男を手玉にとってもてあそぶようなことはできないはずだ。
ということは、世間においてどうかは知らないが、少なくともサラ側は『好きって言われたから』以上の強い気持ちはなく、なんとなく自分に好きって言ってくれた子を彼氏扱いしているだけかもしれない。
俺はそう結論して、サラに言う。
四人の彼氏、一人に絞れない?
パパはお前に四人も彼氏がいるって聞かされた瞬間、死にそうになったよ。
パパのためにもどうか、一人に絞ってくれ……
「決められない……みんな優しいから……」
そっかあ。
俺は
だから俺は寛大そうに言う。
そこをなんとか一人に絞れない?
「世界で一人しかだめ?」
お前の交友関係、そんなにグローバルなの?
このへん以外の土地までふくめたら彼氏八人ぐらいになったりする?
それはちょっと……パパ、こわいな。
「パパこわいの? そっかあ。じゃあね、パパにする……」
うん?
「世界で一人だけなら、パパにする」
おそろいのスポーツウェア着る?
「それはやだ」
おそろいのスポーツウェアは着ないが――
世界で一人だけ男を選ぶなら、俺になるか。
そうか。
俺はフッと笑った。
そして言う――いいよ、四人の彼氏を呼んでも。
「いいの?」
うん。でも、そのうち一人に絞りなさい。
この国は一夫一妻制だからね。
笑ってサラの髪をなでる俺には余裕があった。
大人の余裕だ。親の余裕だ。もしサラが世界で男を一人だけ選ぶなら、それは俺なのだ。その事実がある限り、彼氏が四人いようが八人いようが、それらはすべて『遊び』に他ならない。
子供の遊びだ。
いいよ、大人の俺は笑って見守りましょう。
俺はサラの頭をなでる。サラも嬉しそうに笑う。獣人種の彼女の気持ちはしっぽの動きでわかる。よし、嘘はない。俺は慎重に確認してから安堵する――俺がサラの『一番』だ。
こうして我が家に週替わりで四人の彼氏が招かれることになった。
でもサラの一番は俺だから。
俺なんだからな。
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