107話 夢と幻想
朱に交われば朱くなる。
どこかの世界のことわざだったと思う。
この世界にも似た意味の言葉はあって、『つながった二つの川は見分けがつかない』だとか、『混ざった煙は一つになる』だとかそういった言い回しが存在した。
環境から人への影響力、あるいは人から人への影響力の強さを説き、『だから身を置く環境や付き合う友達は選ぼうね』というように使われるこの言葉を、俺は今、かみしめていた。
「レックス、俺、会社辞めて漫画家になるわ」
カリナに社会通念を教えた帰りであった。
俺は予想通りマーティンに居酒屋へと連行された。
マーティンは最近居酒屋で愚痴を言うことが趣味みたくなっていて、それはもう最初からわかっていたことだから、今回も『カリナとのやりとりが終わったら直帰できる』と俺はみじんも思っていなかった。
果たして予想通りマーティンは俺を居酒屋に連行し、そして愚痴を言う――かと思えば、しばらくぼんやりした様子で黙りこくって、『お通し』にも手をつけないありさまだった。
そうして注文した酒がぬるくなろうかというタイミングで、そんなことを切り出したのだった。
俺はたいていのことを予想しながら生きている。
もちろん万能ではないので的中率はそこそこだが、『あらかじめ予想しておく』、すなわち『意外なことに直面した時に落ち着いていられるよう準備をしておく』ことは重要だ。
今回も俺は、様々なことを予想しつつ居酒屋に入った――また『起業したい』と言われるだろうなとか、仕事やめたいトークが始まるだろうなとか、そういうことを言われると、予想していたわけである。
しかしマーティンの口から出たのは実に意外なことで、俺はあやうく注文したお茶を取り落としそうになった。
困ったぞ……まさか『カリナに会わせよう』という軽率な決定が、こんな結果につながるだなんて……
「漫画家っていいよな。なんていうか……自由でさ。輝いて見えたよ」
マーティンはどこか遠くを見ていた。
俺は意外すぎて対応を決められない――まあ、他者が職業選択をしているだけなのだから『好きしろ』以上のことを言えるわけもないのだけれど、それでも俺の心はとっさに『やめとけ』という言葉を絞り出しそうになった。
マーティンがどうなろうとマーティンの自由ではあるのだが、なるほど、カリナと引き合わせた責任を俺は感じているのだろう。
俺はとりあえずマーティン漫画家計画を止めるという立ち位置に自分をおくことにして、どうしたらこの夢見がち社畜ボーイを止められるのかを考え始めた。
マーティン、その、えっと……
漫画家は不安定だぞ。
「レックス、安定と自由はトレードオフだ。そんなことは俺もわかってる。そして……今、俺に必要なのは安定じゃない。自由なんだ」
マーティンは綺麗な目をしていた。
教師経験十年にのぼろうかという俺は、この目をよく知っている。
この目は『動画配信で生きていきたい。動画とか見ないけど』とか『建築士になりたい。なにするのか知らんけど』とか、そういう、ふわふわした夢を見ている中学生と同じ目だ。
どんな職業も否定はしないが……
『職業の輝かしい部分しか見えていない者』が、しばしばこういった目をするのだ。
こういう時、中学生に現実的な話をすることは、実のところ、ない。
中学生の夢はふわふわしていて当たり前なのだ。
だからふわふわした夢を持つ中学生に向けて俺が言うのは『調べてみろ』だけである。なんなら資料なども探して提供することも少なくない。
まあ、そういった資料にはきっと目を通さないのだろうけれど、もしも高校を卒業してそれでもやりたければ、そのころに『昔、もらったな』と思い出して俺の提供した資料を見たり、また他の手段で『あこがれの職業』になるための具体的な方法を調べたりするだろう。
そう、中学生には時間があるのだった。俺たちロートルから見れば無限とも思える時間があって、情熱があるのだった。
時間の中で頭が冷えれば夢の現実を見つめる機会も生まれる。そもそも、中学生のころに抱いた夢なんか、高校を卒業するころには忘れているのが常だろう。
だからふわふわした夢を語る中学生相手ならば、『情報の入口だけ示して、あとは放っておく』という手段がとれるのだ。
しかしマーティンは三十代である。
自分の収入で生活しているのだった。立場があるのだった。
仮に失敗したらもとにもどれない、そんな年齢なのだった。
ふわふわした夢を見ている場合ではない――夢を見ることも、漫画家を目指すことも否定はしない。しかし俺たちの年齢で夢を追うのは、けっこう命懸けだという事実だけは認めたほうがいい。
俺が引っかかっているのは『会社辞めて』の部分だ。
辞めるな。続けつつ漫画描け。
「しかしレックス、やっぱりさ、創作には時間が必要なんだよな。あとは、自由な心っていうの? すばらしいものを描くための発想は、やっぱりそういう落ち着いた時間から生まれてくるっていうかさ……」
なんでまだイラストの一枚も描いたことないのにいっぱしの作家みたいなことを語り始めてるんだ……
あのなマーティン、俺は漫画家というものをある程度は知っている。カリナをそばで見てたし、妻が編集者だしな。
まあミリムは今、異動で児童書籍系の部署にいるんだが、その前には月刊系の漫画家を相手にしていた……
中には当然専業もいたのだが、実家の太さがないと生活はきついらしい。
あと、小説系だと受賞者にまず『今やってる仕事はやめないでください』と言うとも聞いてる。
わかるかマーティン、漫画家は不安定なんだ……
不安定な収入は、心をも不安定にする。
だから仕事は続けろ。
「俺、才能あると思うんだよな」
なにを根拠に!?
「カリナさんの作業風景、ちょっと見たじゃん。あれ見て思ったんだよ。『あ、俺でもできそう』って」
お前は創作の入口に立った者がだいたい陥る精神疾患をわずらったようだな……
まあそうなるともう言葉は通じない。
とりあえず会社やめる前に一本ぐらい漫画を描き下ろしてみたほうがいいと思う。
現実はお前が思うほど甘くはないと、カリナのそばで悲鳴を聞いてきた俺は知ってるから……
「いやでも……いけるんじゃないか? 案外」
マーティンが根拠のない自信を根拠に食い下がってくる。
俺は……『もう好きにしろ』と言いたい気持ちをこらえつつ、マーティンへの説得を続けた。
まあほんと、俺が口出すことじゃないとは思うんだけどさ……
友人が地獄に落ちようとしているのをどうしても見過ごせなかったんだ。
このあと、なんとか『会社を辞めずに賞に投稿できるぐらいのものを描き下ろす』というところで説得に成功した。
のちにわかったことだが――
後日、マーティンに漫画の進捗をたずねたら、死にそうな声で『やっぱやめた』と返されたので、ここで俺が食い下がったのは、正解だったんだと思う。
俺は一人の人生を救うことができたのかもしれない。
人生百万回のうちそうは経験しない、得がたい勝利であった。
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