106話 月日は百代の過客

 日々というのは過ごしていれば遅く感じるものだが、振り返れば一瞬で過ぎ去ったように思えるものだ。


 つい先ごろ幼稚舎に入った娘のサラはいつのまにか言葉も達者になり、オシャレを自分でするようになり、そして先日、初等科へと進んだ。

 俺が敷いたレールはこのまま学園の中等科、高等科、大学と進んでなんらかの職に就くか、俺の夢だった専業主婦あたりにおさまってもらうことだった。

『夢だった』――俺は専業主夫という目的をあきらめてはいない。まだミリムの稼ぎで食っていく夢を見ている。しかしそれが経済的に不安定な道だということも充分に理解していて、結果としてまだ教職を続けていた。


 三十二歳となった俺はまだまだいち担任でありいち部活顧問でしかないが、このまま歳を重ねていけば、いずれ学年主任となり、教頭になり、あるいは校長まで上り詰めることもあるのかもしれない。

 そこまで行きたいのか、行くなら生涯の職を教師とするのか、あるいは父の塾を手伝うのか……大学卒業と同時に終わったと思われた『進路』にまつわる悩みは、どうやらまだまだ続いていくことになりそうだった。


 悩みを抱えつつも日常を『こなす』ことをようやく覚えたある日、娘も手がかからなくなってじゃっかんの退屈を覚えていた俺のもとに、さる人物からの連絡があった。


『普通のちょっと偉い社会人と会うんだけどどうしたらいい!?』


 なんの話だ、というそのメッセージの送り手は、漫画家のカリナ先生であった。


 二十代はじめから漫画家をやっている彼女はもはやその道の中堅クラスになっていた。

 妻が出版業界にいるのでわかったことだが、漫画家一本で十年やっていくというのは、とてつもないことらしい。

 まあカリナの場合は実家の太さもあってのことっぽいので、ガチで一人暮らししながら漫画家をやっている人たちとはちょっと条件が違うっぽいが、それでも一つの道をひたむきに歩んでいっている彼女には、尊敬の念を覚える。

 ……尊敬の念を覚えつつも、俺の中で『カリナを尊敬する』というのがうまくいかなくて、まあその、あまり敬意のこもった接し方はできていないのだけれど。


 ともあれメッセージの意図がつかめない。

 俺は率直に問いかける――なんの話?


 カリナは冷静さを取り戻したのか、その後に送られてきた事情説明は、整然としてわかりやすいものだった。


 仕事でゲーム会社の社長と会うことになった。

 しかしどんな服を着ていけばいいかわからない。

 あと、出版社の人としかかかわってないので、いわゆる『社会通念』みたいなものが全然わからない。

 教えて。


 俺は教師だ。教師は教えることのプロだ。

 また、俺の相手は主に中学生なのだが、中学生はまあ、生意気だし、変な知恵がまわるし、教師のことを敵だと思っているフシもあって、『意味のわからない、どうでもいいようなこと』をしつこく聞かれたりすることもある。


 こういう時に『授業妨害や「教師を困らせよう」などの意図でされた質問』なのか『本気の悩み相談』なのかの判断が難しい場合があり、俺はたいていの質問への答えかたをリストアップして暗記してあるのだが……


 カリナの質問、超困る。


『社会通念を教えて』って……

 いやまあ、言いたいことはわかる。


 カリナはいわゆる『社会経験』がない。


 漫画家として社会に出ているのだからそれも社会経験ではあるのだが、ここで言うのは『スーツを着てネクタイを締めて積むタイプの経験』である。

 漫画家は特殊な職業なので、そういったワイシャツ組が積むような経験を積む機会がないようなのだ。


 しかしここで、俺はカリナに屈辱的な――なぜカリナと接すると俺はいちいち屈辱を覚えるのだろう――告白をしなければならなかった。


 カリナ、実は……

『教師』も特殊な職業なので、ゲーム会社の社長さんに通じるような社会通念は俺も知らないんだ。


『レックスなのに!?』


 俺という存在のどのへんにそこまでの信頼があるのかがいまいち不明だが、まあ、レックスなのに知らない。

 教師というのはこれもまた特殊な職業だった。特に学園で卒業してその学園に就職した俺は、狭い世界で生きていると言わざるを得ない。


 狭い世界で生きること自体は、俺が望んだことだった。

 全容を把握できるぐらいまで切り取った世界の中でないと、どこからなにが出るかわからなくて不安になる。

 世界は狭いほうがいい。認識できる範囲ですべてが完結しているほうが安全だ。俺は心からそう思っている。


 しかしそのせいで、『教えを請うてきたカリナに教えることができない』という屈辱を食むことになってしまった。

 俺は『カリナに自分の知識、見識不足を露呈すること』をことのほか屈辱に感じるようだった。メッセージに吐き捨てる。くっ、殺せ!


『ふむ、男騎士の「くっ殺」ですか。それいただきますね』


 ネタにされた。

 とにかくこの話はここまでだ。俺にはカリナに教えられることがなにもない……


『レックスがダメなら……いったい誰に頼ればいいんだ』


 税理士さんと会う時どうしてるんだ……

 その時の感じで行けよ。


『あれは出版社に紹介してもらった税理士さんだから、息がかかってるんだよ』


 たぶんそれが大丈夫なら、漫画家を招聘しょうへいするゲーム会社の社長さんも大丈夫だと思うんだけど……


 しかしカリナはグダグダといろんな言い訳を並べ始める。

 俺たちのつきあいももうかなり長い。だから俺は知っている。カリナがこうやってグダグダし始めた時は、俺がなんらかの『満足できる回答』を出さない限り、永遠にグダグダし続けるのだった。

 なんかあっちのが年上なのに、手のかかる娘って感じ……


 そこで俺に雷光のようなひらめきがよぎったのは、まさに天の助けと思わざるを得なかった。

 俺は『天』が嫌いなので舌打ちをしてからカリナにメッセージを送る。


 社会通念は、マーティンに聞いてくれ。

 あいつはいわゆる『一般社会人』だから、俺より社会通念に詳しい。


『なるほどその手が! じゃあよろしく!』


 いや……自分で連絡して、自分でお願いしてよ……


『えっ、だってマーティンくん、陽の者じゃん……むり。あとレックスを介さない連絡とかとったことないし』


 マーティンが陽の者だから無理という言葉の裏に、『レックスは陰の者なのでアリ』という響きを聞いた気がした。

 否定しにくいので気づかなかったことにして、悩む。悩むが、カリナの性格上、『二人で勝手にやれ』というルートはたぶん存在しないんだろうな……


 俺は折れた。

 わかった。じゃあセッティングしよう。


『いっしょにきて』


 カリナは俺のことを保護者だと思っているフシがある。

 一度折れてしまった俺はもはや雪崩をうつように折れ続けた。結果としてあさっての休日にマーティンと俺とカリナでファミレス会議が開催されることになった。


 ――この時の俺は、まだ知らなかったんだ。

 まさかこの軽率な決定が、あんな結果につながるだなんて……

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