105話 金と命と信念
幼稚舎入りにそなえてすべきことは数多いが、一番面倒な下準備は『制服作り』だと思う。
俺が半生を過ごし、そして今なお教師として在籍する学園には制服がある。
この制服というのは基本的にオーダーメイドで、採寸して作ってもらうのだが、幼児に採寸のさい『じっとしててもらう』ことが困難なのだ。
うちのサラの外面のよさは乳児のころから大したものではあるのだが、それでも採寸は『知らない大人に体中をはかられまくる』というので、緊張するのか、わたわたと落ち着きがない。
「いやあ、おたくの娘さんは、だいぶお利口でいらっしゃる。もっと元気のよいお子様も、たくさんいらっしゃいますからね」
採寸を担当する人は目尻の笑いシワが特徴的な老紳士だった。
細い体をきちんとしたシャツとスラックス、ベストで包み、首から伸ばしたメジャーをぶらさげ、しきりに手にした紙になにかを書いている姿などは、『一世代前からずっと生き残っている古き良き職人』という風情で、なかなかあこがれるものがある。
『職人』。それはあこがれる生き方の一つだった。
一つの技術に打ち込み、ひたすらに高みにのぼっていく……そういった生きかたで天寿をまっとうできるならば、どれほどいいことだろう。
しかし世の中は『ただ、己の技を高めていく人』がそれだけで生きていけるようなものではない……稼がなければならない。
我々はなにをするにしても『生きる』という、こなさなければならない、コストの高い、そういう責務を背負い続けているのだ。
技術を追い求める職人は
しかし生きていくのは一点特化では難しい……やはり立方体だ。精神的に、技能的に、肉体的にも、立方体こそ、もっとも安定した形状なのだ。
今にも暴れ出しそうなサラをどうにかあやしつつ、そんなことを考え続ける。
これは『親』なら誰しもが身につけざるを得ないスキルだと思うのだが、親の業務になれてくると『子供の世話をしながら、別なことを考える』というのができるようになる。
というか、そうでもしないと、やってられない。
しばしば子持ちでない知り合いなどは、子供が『朝七時には起きて、昼から夕方まで力いっぱい遊んで、夜九時か十時ごろにはきっちり眠る』と思っているフシが見受けられる。
だが子供とはそんなスケジュール通りに動いてくれる存在ではない。
赤ん坊時代は平均三時間ごとに泣くし、起きるし、暴れるし、乳をねだる。サイレントおもらしもする。
幼児となってからもだいたい変わらない。連中は好きなように遊び、好きなように騒ぎ、そして疲れれば動力が切れたように眠るのだ――直後に夕食がひかえていようがなんだろうが、おかまいなしに。
そして早めに眠ってしまった子供はどうするか?
そう、起きるのだ――夜中に。
夜中に起きておいて『眠れない』と泣くのだ……
冗談でなく親は子供から片時も意識を放せない。
が、現実的に『常に警戒を続ける』のが不可能なので、保育所にあずけたり、そして、『世話をしながら別なことを考えるスキル』を身につけたり、ということが必要になってくるのであった。
とか考えていたら採寸も終わり、制服は一週間ほどで仕上がる旨が告げられた。
このへんの制服ビジネスはどういったラインで動いているのだろう? 吊るしの服よりはあきらかに時間がかかっているが、オーダーメイドよりは絶対に早いペースで制服が仕上がるメカニズムに俺は思いをはせつつ、『制服作りをがんばった』という理由で、サラを連れてケーキなどを売っている店に向かった。
子供がいるとこのように『ご褒美』の機会が増えていき、出費も雪だるま式にふくらんでいく。
金は命だ。この世界は金銭があればたいていのことはどうにかなるが、金銭がなくなってしまうとどうにもならなくなる。
サラの入園のための準備で貯金が削られていく現状はかなり心にくる……子供は金を食うというのは理解していたし、計算もしていたのだが、予想以上に、『制服作りがんばったご褒美』とかの出費がすごい。
ならば『子供を持ったのは失敗か?』と当然そこまで思考はめぐるが……これが全然、失敗とは思えないのだった。
……論理性と効率性が、だんだんとなくなっていっている気がする。
今、俺が人生を過ごしている『人類』という生命体は、『同じ信念を抱き続けること』が難しい脳構造をしている。
それを加味したうえで、俺は『生ききる』以外の余計なものを抱かず生きてきた。貫く信念が増えれば増えるほど、同じ信念を抱いたまま生きることが難しくなるからだ。
だからこそ『生ききる』だけはまげていないはずだった。それが最優先で、それ以外は、『生ききる』ことの邪魔になりそうならば、容赦なく切り捨てられるものばかりのはずだった。
だというのに子供の存在は俺の信念に食い込み、それを変えようとしていっている。
これは『敵』による洗脳か? あるいは、サラこそが『敵』なのか?
わからないが――
未だに『生ききる』を至上命題としながらも、俺は、サラのせいで寿命が削られ、この人生もまた『生ききる』ことができなくなっても、それはそれでいいか、と思えるようになっていた。
……ああ、たぶん俺は、また失敗したのだろう。
また、命より大事なものができてしまった。
そのせいで命を落としても全然かまわないというようなものを、この世界でも獲得してしまったのだった。
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