108話 尿酸値

 年代ごとにホットな話題は変わっていく。


 それは世間のはやりが移り変わるという話ではない。

『今、俺たちは三十代だから三十代なりの話題で会話をしているが、かつて三十代だった今の四十代たちもまた、同じようにこの話題で会話していた時期があったのだろう』という――他者に語って納得を得ようと思うと少々複雑な意味で、話題が移り変わっていくのである。


 十代のころ、俺たちははやりのゲームの話ばかりしていた。


 二十代のころ、ちょっと流行からは遅れたゲームやその他娯楽の話をすることが多かった。


 そうして三十代になった俺たちは――健康についての話しか、しなくなっていた。


「このあいだの健康診断で尿酸値がやばかった」


 サラが初等科二年生になったとある春のできごとだ。


 華々しかった並木道もいつしか葉が目立つようになり、気温はきちんと段階を踏んで上がっていく。

 去年おととしと世界が温度調節のやりかたを忘れたかのような急激な気温・天気の変化があったので、今年は『ようやくまともなペースで季節が移り変わっていく』と多くの人が安堵していることだろう。


 そんな時、マーティンに呼び出された。


 マーティンが俺を呼び出すというのは、実のところ珍しいことではない。

 その気になれば相手の顔を見ながら遠距離通話ができるこの時代に『直接会う』というのはいかにも非効率なのだけれど、それでも俺はマーティンの呼び出しにはそこそこの頻度で応じていた。直接会って話さないといけないこともあると知っているからだ。


 マーティンからの呼び出しの場合、落ち合う場所はたいてい、安居酒屋となる。


 しかし今回はいかにもオシャレで、飲み物の種類がやたら多くて、値段のわりに料理の量が少ない、そんな場所に呼び出されて、俺は困惑していた。


 その理由を今、語られたのである。


『尿酸値がやばい』。


 尿酸値。

 そんな言語、二十代のころは認識さえしていなかった。だが、今の俺は知っている。

 健康に生きていれば本来気にする必要もないはずの数々の言葉を、三十代、健康診断を定期的におこなう俺たちは、知ってしまったのだ……。


 俺はなんとも言えない顔で目の前の料理に視線を落とした。


 俺は上品にチーズをあしらったパスタを注文したのだが……

 マーティンの前には、サラダと炭酸水だけがあった。


「なあレックス……俺はさ、健康診断なんか、どうだっていいと思ってたんだ。だってそうだろう? 健康に気づかっても、人間、死ぬ時は死ぬ。……でもさ、健康診断の結果を見て、俺は……なんだか、ガックリしたんだ。医者にいろいろ言われたのも効いたのかもしれない。でも、でもな。一番効いたのは……」


 マーティンはいったん言葉を句切って、視線を落とした。

 俺たちの着いたオシャレな一本足丸テーブルより、さらに下を見ているようだった。


 しばしあって、視線を上げたマーティンは、言う。


「……鏡に映った、自分の腹が、ぼよぼよしてたことが、一番、効いたんだよ」


 マーティンはスポーツマンであった。


 高校のころはホウキラグビーに精を出し、大学でもなんらかの運動をしていたようである。

 しかし就職してからというもの会社がよほどブラックらしく運動する時間は消え失せ、ある程度忙しさが安定してからも、運動の習慣は彼には戻らなかったのだ。

 そのくせ休日になると酒にひたり、ストレスを食べて解消する始末。

 太らないわけがなかった。


「なあ教えてくれよレックス、お前はなぜ、体型を維持できる?」


 親子でランニングとかしてるからだけど。


「そういうんじゃない」


 どういうのだ……

 ランニングで不満なら筋トレとかストレッチとか言ってもいいけれど。


「そういうんじゃないんだ。俺は……『一日五分! これさえこなせば理想のカラダに!』みたいなものを求めてる」


 その手の書籍は『情報』というものに人々が触れやすい世界には必ずあって、一定の人気を集めているようだった。

 俺も手にとったことはあるのだが、まあ、なんていうの? ……『成功バイアス』と『まあなんにもしないよりはマシかな』という感想以外を抱いたことはない。


 俺は正直に言う――お前の求めるものは存在しない。


「わかってる! わかってるんだよ! 簡単に健康になれるわけなんかないって、わかってるんだ! ……でもさ、俺がほしいのは『救い』なんだよ。実際の効力よりも、今、目の前にある絶望感をすぐにどうにかしてくれる『救い』がほしくてさ……そこに実際の効力があったとしたら、それは素敵なことじゃないか?」


 マーティンが歳を経るごとにダメ人間になっていっている。


 俺はなるべくマーティンの期待に沿う運動法を脳内で検索して、言う。とりあえず一日三十分だけストレッチしろ。それだけで全然違うはずだから。


「三十分もストレッチとかなにすんだよ」


 どうやらマーティンの中から失われたのは、『運動の習慣』だけではなく、『運動していたころの記憶』もらしかった。

 ホウキラグビーは激しい運動なので、筋トレ基礎トレの他にけっこう長い時間をストレッチに割くはずなんだが……


「レックス、条件を確認しよう……俺は、五分以上の運動はしたくない。いや、できれば三分ぐらいがいいんだが、そこは俺も折れよう。五分だ。それ以上はまけられない」


 俺たちに『保育所からのつきあい』がなければ、見捨ててる。

 しかし俺はマーティンを見捨てない……なんかこうコイツを見捨てないことで俺にメリットが発生するとかいう理由があってコイツとのつきあいを続けていたはずなんだが、最近はメリットとか気にせずに見捨ててない気がする……


 じゃあ五分ストレッチしろ。


「痩せる?」


 三年ぐらいやれば痩せるんじゃない?


「夏までに痩せるにはどうすればいい?」


 じゃあな。

 俺は伝票を持って席を立った。


「待て! 待ってくれ! 理想! あくまでも理想を語っただけだから!」


 俺は席に戻った。

 テーブルにほおづえをついて、うろんな目でマーティンを見る――確認しておきたいことがある。人体についてお前がどう認識しているかだ。この世界の人類の肉体は、夏まで、仮に七月までとして、今から約二ヶ月半で急激に体型が変わるように設計されてると思うか?


「やべぇな……お前の言い回し、社畜生活で疲れ果てた脳みそにまったく入ってこないわ……」


 人間は二ヶ月半で体型を変えることはできない。そういう生き物なんだ。


「でも」


 わかってる。

『情報バラエティで檄痩せしてる人を見た!』『コマーシャルで短期間ですごく痩せた人を見た!』『雑誌の折り込みチラシで見た!』と言いたいんだろう。

 そういう事例を挙げて反論する相手に俺が言えることは一つだ。

『コマーシャルで痩せてたなら、そのコマーシャルを打ち出している会社を頼れ。俺を頼るな』


「くっ……相変わらずお前は言論封殺が得意だな……」


 お前との会話は予習済みだ。

 カリナにも似たことを言われたから……


「カリナさんと俺は似てるのか? ということは俺も漫画家になれるのでは?」


 教職に就いてる三十代という立場だと非常に言いにくいんだが、今、俺はお前に『死ね』と言いたい気持ちでいっぱいだよ……


「言ってるじゃねーか!」


 まあとにかく、健康は長生きのために必要だから、俺は色々とリサーチと実践をしている。

 それでも俺は万能でもなく、他者に教えるために健康について調べているわけでもない。


 俺がすすめられるのは、俺がやってることだけだ。

 成功バイアスっていうやつだな。俺がやってる、俺に合う方法しか勧められない。『二ヶ月半で素敵ボディを手に入れたい』とかいうヤツに返せるのは『お帰りください』だけだ。


「わかったよ……俺は覚悟を決めた」


 そうか、ストレッチするか。

 ストレッチで慣れてきたら筋トレとかランニングも取り入れていこうな……


「いや、尿酸値を……受け入れるよ」


 ………………は?


「健康診断で出たこの数値は『ありのままの俺』なんだ。俺は、俺を受け入れる。くよくよしない。この数値はな、俺をあらわした、俺自身なんだ。自分が自分を受け入れてやれなくてどうするよ。よし、そうと決まれば――」


 マーティンはガツガツとサラダをかきこみ、ゴクゴクと味のない炭酸水を一気のみし始めた。

 そして俺をせかしてパスタを食べさせると、会計を済ませ、ニッコリと笑って言った。


「――さあ、行こうぜ、肉」


 そこには男の覚悟があった。

 俺は苦笑し、「ああ」とうなずく。


 他に言うべきことも、浮かべるべき表情も思いつかなかったんだ……

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