102話 人生初の『大成功』

『国』を感じている。


 人は大きすぎるものを『背景』だと思ってスルーしてしまうことがあるようだ。

 たとえば普段から目にしているはずの山などでも、『ほら、近くに○○っていう山があって』と言われて『そんな山近くにあったっけ?』となることがままある。


『国』というのは当然ながら山よりでかいので、その存在を認識する機会はまれだ。


 しかし俺は今、『国』を感じている――

 正しく言えば国民皆保険を感じている。


 病院に来ていた。


『まじない師』『祈り屋』『巫女』――名前やありかたは違えども、『人の病やケガを治す場所や人』という概念が存在しない世界は皆無だった。


 この世界にも病院はある――というかまあミリムの出産の時にも利用したし、子供はなんかすごい風邪とか引くのでよく『病院』には来る。

 そのたびに普段支払っている保険料の恩恵を得ているはずなのだが、今、俺はかつてないほど保険のすごさを感じていた。


 俺が風邪引いた。


 診察・治療のための諸経費を払って明細を見ていると感動を覚える。

 えっ、マジで? 保険に入ってるとそんなに診察代引かれる? ってことは入ってないとこのぶんがお財布から飛んでいく? ええー、マジ? でもまだ元とれてないし、もっと積極的に風邪引こ……って感じだ。


 家に帰って『隔離スペース』に入る。


 隔離スペースというのは我が家における『開かずの間』であった。

 家族三人で過ごすには決して広いとは言えない賃貸ではあるが、『普段誰も使わない部屋』を一つ用意してあるのだ。


 そんな部屋を用意している理由はいくらかある。

 一つは将来的に娘の部屋にしようというもくろみがあってのこと。

 あと、俺たちはけっこう仲がいい夫婦ではあるけれど、一人でいたい時もきっとあるだろうから、そういう時に利用する空間を確保しておきたかった。

 なにより、こうやって風邪を引いた時などに家庭内パンデミックを避けるためだ。


 俺は隔離スペースに入り、眠りにつく。


 しばらくは眠れず現実と夢の境界をさまよっていた……そのあいまいな意識のまま考えたことがある。


 これは現実なのか?


 人生がうまくいきすぎている感じがある。もちろん努力はおこたっていない……しかし人生とは、努力したからどうにかなるという程度のものではなかったはずだ。

 どうにもならないことはある。実際にあった。転生後に毎回『人生反省会』をやるのだが、『もし、違う行動をとっていれば?』と想像しても、けっきょく詰んでいた、みたいなことばっかりだ。


 そもそも、今、俺は誰だったっけ……


 人生を繰り返しすぎた弊害か、意識がもうろうとすると、今の自分がどういうパーソナリティだったのか忘れそうになることがある。

 今の俺は……そう、たしか四足歩行……いや、二足歩行……歩行、してたっけ……? そもそも物質の体はあっただろうか……わからない。俺はウネウネと動いた。両腕と両脚があった。四肢で二足で二腕だ。


 幼体だったか成体だったか老体だったか……老体? 老体はないな……老体経験は百万回のうち二回しかないのでさすがに覚えている。


「レックス、寝た?」


 もうろうとした意識の中で誰かの声が聞こえた。

 誰だ……? 敵? わからない……わからないからとりあえず意識をハッキリさせて臨戦態勢をとろうとした。しかし体の不調のせいでうまく動かない。俺はなにかをうめいた。自分でもなにを言っているのかわからない。


「無理に起きないでいいから。飲み物とか持ってきたけど、飲む?」


 持ってきた? 飲み物を?

 なぜ俺に施しをする……? なにが目的だ?


「えっ、風邪の完治?」


 俺の体調をよくしてどうする気なんだ……

 こわい……俺は抵抗する力もない状態で目的のわからない存在に接して恐怖を覚えた。俺は無力だ。この無力感は……そ、そうか! 俺は己の正体を思い出した。


 赤ちゃんだ。


 俺の百万回の人生において、『なにもしなくても庇護される存在』であった経験はそれほどない。たぶん一回目の人生と……まああと一回ぐらいだろうか。

 赤ちゃん……その存在についてのデータを呼び起こす。赤ちゃんとは、ウンコして泣いてるだけですごく優しくされる存在……至高のVIP……俺はそうだ、赤ちゃんになりたい。立方体の赤ちゃん……立方体? わからない、なぜ俺はキューブ状の赤子を目指しているんだ?


「だいぶ頭がまずそうだね」


 俺の頭はまずいらしかった。

 今の俺は頭のまずいキューブ状の赤ちゃんだ。なんだその存在は? 意味がわからない。自分のことのはずなのに、どういうことなのか全然わからない。教えてくれ……俺はなぜ立方体なんだ?


「わたしが知りたい……あなたはなにを言っているの? ……とにかく、体だけ起こして。ほら」


 言われるがままに上体を起こすと、背中にそっと手が添えられ、口に飲み物が運ばれた。

 なんだこの待遇は……意味がわからない。厚遇されすぎてておそろしい。いや、そうか、赤ちゃんはこうだったな……ばぶう……俺は人生の苦みを知りつくしたようなうめき声を出した。


 とにかく求められるロールが『赤ちゃん』ならそれを演じきらねばならない。

 世間から求められる自分になるのは大事だ。世間は求めたことを適度にこなす者に害があるとは思わない。俺は世間から『無害』と見られなければならない。なぜなら、注目されないことこそが最高の処世術だと知っているからだ。


 俺は求められるまま赤ちゃんになった。


「……まあいいけど。体ふくから、服を脱ぎましょうね」


 こうして俺は赤ちゃんになることに成功した。

 今回の偽装は、俺には珍しく大成功だと言えただろう。


 そう、風邪が治ったあと――

 ――この時の記憶を正常になった頭で思い出すまでは、たしかに、大成功だと思っていたんだ……

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