101話 ほうれんそう
俺は最近、男が滅びればいいと思っている。
冷静じゃない。自己分析をしよう――そう、この高い攻撃性は、警戒心のあらわれであり、防衛のためのものだ。
大事なものが危機にさらされるがゆえに、俺はこんなにも男……特にゼロ歳から四歳ぐらいまでの男に対する警戒心が高まっているのだ。
なぜって最近、サラがキス魔。
サラというのは三歳になった娘である。
保育所では乳児のお世話をまかされた影響か最近とみに大人びてきて、どこか物憂げな表情など浮かべるようにもなった。
最近は「はたらくのってたいへんね」とか意味深なことを言われて、『なにがあったお前……』ってなってる。
その大人びたことに関係があるかどうかはわからないのだが、最近、サラはかなりキスをせがむようになっている。
俺にだけじゃない。俺の父母にも祖父母にもだし、もちろん妻のミリムにもだ。
ちなみに今、保育所にサラをお迎えに来ているわけだが――
俺の目の前で、乳児にキスをしていた。
ちなみにその乳児は性別・男だ。
許せない。
……そう、俺は冷静ではないのだった。
普通に考えよう。
もし、三歳児とゼロ歳児がキスしていたら、大人はどう思う? ――そう、『ほほえましい』と思うはずだ。俺だって、小さな子同士がキスしていたらほほえましく思う。
ところが『片方が自分の娘』となっただけで、俺の心には謎の炎が燃え上がるのだ。
これは……嫉妬? 憎悪? 憤怒? わからない。こんな感情には覚えがない。しかしこの黒い炎は身を焦がすほどに燃え上がり、ふとした瞬間、よそ様の子に『滅びよ』とか思いそうになるほどであった。
この炎は次第に強く大きくなり、今ではサラがよその男(乳児)とキスをしている時だけではなく、親族とキスをしてる時も燃え上がってしまう。
俺は独占欲が強すぎるのか? 娘を束縛しすぎるのか?
自己分析し、世間と自分との乖離について思いをはせた。冷静に、そう、つとめて冷静に考えるんだ。
サラは娘だ。いつまでも手元に置いておけるわけではない……
実家暮らしをいつまでするのか、結婚はするのか、どんな職業に就くのか……それはまだわからないが、いずれ親の手を離れる日は必ず来るだろう。なんせどうがんばっても俺のほうが先に死ぬわけだし。死ぬって。先に死ぬよ。
そうするとサラは俺の手を離れていくのだ。
その時に、強い独占欲や束縛は、サラにとっての重荷とな……ダメだ。無理だ。『サラが離れていく』と考えただけでストレスで吐きそう。
しかも俺の論理的頭脳が『先に死ぬけどそれは順当な場合で、事故とかに遭うとその限りでは』とかいうイヤな現実を突きつけてくる。やめろ。俺は思考を打ち切ろうとした。しかしできなくてとりあえずストレスで吐いた。
保育所トイレの低い洗面台で顔を洗いながらなおも考える。
滅びよ……滅びよ……俺とサラ以外の人類……黒い炎が意思をもって体内で暴れ狂う。ダメだ。冷静になれない。
なんでこんな妄想でここまで心乱れるんだ。これが、『親』ということか……!
冷静になるために携帯端末を取り出し、誰かに連絡をしようと思った。
名前順の都合でアンナさんが最初に目についたので、アンナさんに通話した。いい加減アンナさんの苗字を結婚後のものに変えなきゃならないなと思考の端でチラリと思う。
音楽家のスケジュールについてはわからないのだが、休憩中だったのか、就労時間以外は演奏しないのか、アンナさんはわりと早く通話に応じてくれた。
「もしもしレックスくん? どうしたの?」
サラが他の男にキスしてて……俺は世界の滅びを願ったんです……
「なるほど」
あとから思い返せばどのへんが『なるほど』なのか全然わからないのだが、アンナさんは黙って俺の愚痴を聞いてくれた。
サラがお迎えを待っている都合上そう長くは話せないので、俺は愚痴をわかりやすく整然とまとめる必要にかられた。
サラが最近、誰かれかまわずキスをするので、パパはすごく嫉妬とか憎悪とかしてる。
俺は……独占欲が強いのでしょうか?
「独占欲は強いと思うけど、うーん、ごめん、答えられないや。だってわかんないもの」
そりゃそうだった。
アンナさんはまだ子持ちではないのだ。
「今年の夏ぐらいに産まれるからそしたらサラちゃんに会わせにいくね」
あっ、はい。わかりました。
えっ? 産まれる?
「赤ちゃん。私の」
あっ、そうですよね。
この文脈でいきなり飼い犬の子とかはないですもんね。
じゃあ妊娠中のお忙しい時に失礼しました。
今度またみんなで食事でも。
はい。
通話を切った。
……えっ? 妊娠?
夏に出産?
アンナさんに子供ができる?
冷静に考えれば既婚者だしそういう可能性は当然あるのだが、なんだろう、俺はおどろきのあまり頭が漂白されて、結果として悩みを忘れることができた。
ありがとうアンナさん。
えっ? 出産? マジで?
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