92話 予想外に早いんですよ

 ボーッとしてたら子供が生まれそう。


 俺たちの日常はすっかり平時の通りに戻っていた。

 もっとも、ミリムが産休中でいつも家にいるというのは変わっていなかったが、それでも俺は教職に復帰したし、念願の教え子たちの卒業式も見た。


 そのはずなのに俺の日常は特に思い出深いこともないままに過ぎていった。いや、思い出に刻むべき出来事はあったのに、それらを深く記憶に刻むことができないでいたのだ。

 なぜって、子供が生まれそうだったから、気が気じゃなかった。


 妊娠中のミリムにもすっかり見慣れたものだったし、俺は『妊婦がいる生活』にも慣れたつもりでいた。

 ところが出産が近くなると病院のお世話になる頻度は増えるし、ミリムが体調を崩すことも増えるし、俺は得意だったはずの書類仕事さえ手につかないようなありさまで、あわわわわわわ……


 そんなおり、ミリムが産気づいたという連絡を病院からもらった。


 予想外に早い。俺たちは出産にあたって、五月の大型連休中に子供が生まれるような計画を立てていた。ところが予想外に早い。なんていうのかな、こう、予想外に早いんだ。


 どうしよう、予想外に早い。


 俺は考える。予想外に早い……ダメだ、頭がぜんぜんまわらない……予想外に早い。同期の先生にも言った。予想外に早いんですよ……「なにがですか?」妻の出産……出産しそうナウ……「病院行ってくださいよ!」


 そうだった。俺は病院に行かねばならないのだった。


 同期教師の助言により『病院に行く』という選択肢を思い出した俺は、とりあえず病院に向かった。

 あ、やべぇ、早退するって言ってない……事前に妻の妊娠は話してるのだが、さすがに連絡なしで早退はまずった。

 通信端末で連絡すると、直属の上司にあたる人は快く俺の事後連絡を受け止めてくれた。

 好感度を稼いでおいてよかった。今度またホウキラグビーの観戦に行きましょう。俺の処世術が無意識に働いて、したくもない約束を取り付けてしまった。


 俺は病院の受付で予想外に早い旨を告げた。いや、そんな旨告げてどうする。受付さんがすごい困ってる。あの、予想外に早くて……ダメだ、言葉が出てこない。

 俺は黙って深呼吸して、それからようやく、絞り出すように『出産、妻、生まれる』という単語をひねり出すことができた。


 予想外に早く出産しそうな妻がこの病院にはミリムしかいなかったらしく、俺は受付の看護師さんに案内されて分娩室までたどりついた。

 扉の前でかたまる。めっちゃこわい。どうしよう、すごいこわい。生命? 生命が生まれようとしているの? この過酷あふれる世界に? どういうこと? 意味がわからない。


 看護師さんに押されて中に入れば、ミリムはとっくにスタンバイできていて、今にも新しい生命がミリムさんからアウトしてこの世界にインしそうな感じだった。


 苦しそうな彼女の手を握る。始まった。握られた手がクッソ痛い。ミリムも俺も自宅での運動を欠かさないし、ウォーキングとかもしてきたので、筋力が強い。握力が実にハイパー。それにしたって強すぎる。生命が、生命があふれている。


 ミリムが叫ぶ。俺も叫ぶ。うわあああ! もう俺が産む! 俺が産むから! 分娩室の中にミリムの声と俺の『俺が産む』という叫びが響き渡って、隣にいる病院の先生に「お父さん、落ち着いてください」と言われた。


 俺は落ち着いた。


 落ち着いてる。俺は落ち着いてるぞ。落ち着け。落ち着けえええええ! 俺は叫んだ。背後から口をおさえられた。落ち着いてるだろ! 離せ! 俺は叫び続ける。生命力だった。


 ミリムと一緒に息を止めたり吐いたりしているうちにどうやら子供は生まれたらしい。

 汗だくでがんばるミリムしか見てなかったので誕生の瞬間を見損ねたのかもしれない。


 子供を取り上げた先生は言う。


「かわいい女の子ですよ!」


 見せられた生物はぶっちゃけ『かわいさ』とはかけ離れていた。

 くしゃくしゃした顔をして、肌を真っ赤にそめて、怪獣みたいな声で泣いていた。


 でも、たまらなくかわいかった。


 その生物を差し出され、俺は一瞬固まってから、抱く。


 そいつの顔を見て俺はまた固まってしまった。「お母さんの顔を、見せてあげてください」と言われて、初めてやるべきことに気づく。


 俺は赤ん坊をミリムの顔のほうに近づけた。

 これ、と俺は言った。それ以上言葉が出てこなかった。


「うん」


 ミリムはそれだけ言った。声はかすれていて、体中汗まみれで、ぐったりしていて――

 でも、その姿は美しかった。


 きっと、まだ目も満足に開いていない赤ん坊をかわいく感じるのと同じ理由、なのだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る