91話 煙
病院に定住の気配を見せていた祖父の容体が悪くなって、それからあっけなく亡くなった。
人が死ぬとあまたの事務処理が発生するというのはリサーチ済みだったけれど、実際の作業はリサーチで覚悟していたよりも煩雑をきわめた。
俺は母の手伝いで母方の実家に出向き、様々な事務処理をして、そして葬儀の段取りがすべて決まるころにはもう三月もはじめのころとなっていた。
作業と作業のあいまには数分単位で時間が空いて、そんな時に俺が考えるのは、『担任をしていたクラスの卒業式には出られるだろうか』ということと、『ミリムのおなかの子はそろそろ生まれるんだよな』ということだった。
祖父の葬儀まっただ中だというのに、俺の中で祖父はもう『過去の人』と化していた。
ただ淡々と必要な書類を埋め、必要な連絡をし、葬儀の折衝をしていく中で時間はどんどん過ぎていく。
煩雑な事務作業をなにもしていない親戚が大泣きに泣いていたりして、俺はそれを横目に見て、虚無を感じていた。
つつがなく葬儀がすんだあと、親族で色々と話し合いがあった。
議題は様々だったが、大きなものは『一人で家に残される祖母をどうするか』であり、祖母が家を離れたがらないので一時紛糾したが、祖母自体はまだまだ壮健なこともあって、『遊びに来る頻度を上げよう』ぐらいに落ち着いた。
こなすべきことが終わったころ、ようやく俺の心に悲しみが押し寄せてきた。
それは激しい感情ではなかった。
祖父の部屋を見る。そこにいつも座って新聞を読んでいた祖父は、いない。もう、あの椅子に座ることもないし、持ち前の器用さで俺たちにおもちゃを作ってくれることもない。
けれど祖父愛用の椅子を見ていると、夜にもまた祖父がそこにすわって新聞を読むのだろうなと思えてきて、それを否定して、そのうち『祖父のいない椅子』に見慣れるのだと思うと、そのことが妙にさびしかった。
このあたりには『煙』をあがめる信仰がある。
人は死後、煙になって世界に溶けると言われていた。この世界で生きた人は、この世界の一部になるのだ。
転生ではなく、世界にとどまり、世界を動かす力になるのだという。
俺も願わくばそうなりたいと思った。新しい人生ではなく、この世界の一部になって、この世界を漂って、この世界そのものになりたい。
祖父はきっとそうなったのだろう。
……ああ、わかっている。なにも論理的ではない。けれど宗教というものは、抱えきれない悲しみにそれらしい理屈をつけてくれる。理屈がつけば、なんとなく受け入れることができる。俺ばかりではなく、人類そのものが、そういうふうにできているらしかった。
翌日には自宅に帰ることになっている夜、俺とミリムに与えられた寝室で、俺たちは話した。
それは『会話』と呼べるものではなかったかもしれない。俺がただ、ミリムに対し、つらつらと祖父の思い出を語っただけだ。
その中で俺は、あることを思い出していた。
幼少期の俺は立方体というものに強いあこがれを抱いていた。今も抱いている。
『立方体』は完全な形状だ。どうやって立てても、たいてい安定する。俺は安定しているものが好きだった。
当時、語彙がまだ少なかった俺は、祖父に立方体のすばらしさを熱く語ったことがあるらしい。ぶっちゃけまったく覚えていない。
自分の忘れている自分の幼少期の話を人から聞かされると、どうにもむずがゆさと居心地の悪さがあるものだ。
だが、母や父から聞かされた話が――幼少期の俺が立方体について祖父に熱く語ったことを証明する物品が存在する。
それは、木製の立方体だった。
祖父の遺品を整理していたら見つかったその品物は、なるほど幼児用に角が削られていて、そして何カ所かの歯形が存在した。
鑑定をすれば幼少期の俺の歯形であることがわかるだろう。
やわらかな木材で作られたそれは今、俺の手のひらの上に乗っていた。
……『だからなんだ』という部分がまったく浮かばない。
とりとめもない思考をつらつらと開陳してしまった気恥ずかしさから、俺は言う。
子供が生まれたら
「それは、やめるべき」
もちろん冗談だったのだが、かなりガチなトーンで怒られて俺はしゅんとした。ごめんなさい。
それはそれとして子供の名前をそろそろ考えねばならない。
そうだった。俺にはやることがたくさんある。
今の俺が抱いているこの、よくわからない、悲しみとも寂しさともつかない頭のぐちゃぐちゃが解決するより早く明日はくるのだった。
家に戻ったら掃除とかしないといけないし、休んでいた学校にも手土産の一つでも持って復帰しないといけない。
できうることなら教え子の卒業式には出たいのでゆったりもしていられない。
人生にはわけのわからない気分のまま過ごせる時間はほとんどなかった。
俺は悲しみや寂しさを乗り越えられないのに、それでも明日はやってくるのだ。
「生きるって大変だよな」
俺は言った。
ミリムはうなずく。
「長生きって、えらい」
その通りだ。
……祖父は、九十を迎えずに亡くなった。
それは俺からすれば『天寿をまっとうした』とは言いがたい年数だった。俺なら再転生確定だ。
それでも彼は、きちんと生ききったのだと思う。
だから――ああ、そうだ。だから、俺はようやく、死者にかけるべき言葉を手に入れる。
「おじいちゃん、お疲れ様」
きっと多くの『わけのわからない気持ち』を乗り越えて、『明日』を迎え続けた人に、ささやいた。
もしも信仰される通り、死者が煙となって世界の一部になるのなら――
きっとこの声はとどいているのだろう。
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