93話 君の名は
しばらく病院で時間を過ごしたあと、ミリムは家に帰ってきた。
連れてこられた赤ん坊は生まれたてよりかはくしゃくしゃじゃなくなっていて、だいぶ目も開いていて、俺やミリムを見て不思議そうな顔をしながらヨダレを垂らしていた。
この時期の赤ん坊はマジでヤバイ。
食べて寝て排泄するだけの存在だ。
しかも寝起きのペースが一定じゃないので、俺たちは赤ん坊の泣き声にしょっちゅう起こされ、そのたびに食事だ、いや排泄だ、と原因の究明と解決に奔走させられた。
困ったのは排泄でも食事でもないのに泣いている時で、病気なんじゃないかとか、ケガでもしてるんじゃないかとか、色々な不安がよぎり、両親に相談したり医者に行ったりしてもなんにもわからなくて、不安のあまり俺たちが眠れなくなり――
『たぶん、暑かっただけ』ということがわかって、リアルにコケて倒れ込んだこともあった。
生後一ヶ月ぐらいになるといよいよ前腕がマシュマロみたいになってきて、俺たちはヒマさえあれば赤ん坊をプニプニして笑う。
赤ん坊も俺たちを見て笑うので、そろそろ俺たちを『親』と認識し始めてきたのかもしれない。
この時期になると手足をバタバタするのだが、俺とミリムの子は獣人なものだから、しっぽもバタバタするし、頭の上にある耳もピクピクする。
ちなみに顔の横にも耳があって、こちらが本当の『耳』であり、頭上の獣耳は『かつて耳だったものがかたちだけ残って退化したもの』らしい。
獣耳はわりと感覚がにぶいもののようで、しかし体の一部だからぶつけたら痛いらしい。
ベビーベッドに獣耳をぶつけては泣くので、俺たちはベビーベッドをちょっと改造せざるを得なかった。
「このあたり獣人いないから、わたしのママも苦労してたみたい」
獣人の多い地域だとそれ用の品が売られているのだが、このへんでは取り扱いがなく、通販でも輸送料がアホみたいに高くてなかなか手が出ないのだった。
そういえばミリムママも服のしっぽ穴は自分の手で空けていたようだ。俺は裁縫スキルを磨いていてよかったと心から思った。
我が家はかなり恵まれた環境にあると思う。
俺とミリムの両親は育児のヘルプによく来てくれた。
それでも俺は育児休暇をとった。なんでも、生後二ヶ月ぐらいから色々認識し始めるらしいので、俺が親だという事実をわからせてやろうと思ったのだ。
ところが赤ん坊というのはかなりいろんな人に狙われる存在だった。
うちの両親もミリムの両親も一度抱きしめると離したがらないし、俺にとっての祖母、すなわちこの子にとっての曾祖母たちも来て、我が家は一時騒然とした。
赤ん坊争奪戦の勃発であった。
俺たちは戦った。これは生命をかけた戦いなのだ。
戦いをしていると、日々があっというまにすぎていく。
ミリムが職場復帰したりカリナが我が子をさらいそうになったり様々な事件が起こった。
そんな中で誰が決めたか、この赤ん坊争奪戦の勝者は『最初にこの子に呼ばれた者』だという取り決めが自然とかわされていた。
この子が『パパ』と言うか『ママ』と言うか、あるいは『ばぁば』か『じぃじ』か、『カリナ』か……
まあ『カリナ』を最初に発言したら、もう俺はこの子とうまくやっていく自信がなくなってしまうので、非常に困るんだけれど、とにかく俺たちは、自分のことを赤ん坊に呼ばせようと必死になった。
授乳期を過ぎ、離乳食を食べるようになり、俺も仕事に復帰し、保育所にあずけるようになった。
保育所にはライバルがいっぱいだ。保育士の先生、世話担当となる子……俺は保育所に娘をあずけだしてから、本当に気が気じゃなかった。
だってミリムが最初に名前を呼んだのは俺なのだ。当時のミリムをお世話していた俺……俺の娘もまた、お世話役の子の名前を最初に呼ぶ可能性はあった。
俺は焦った。焦るあまり生徒に相談した……『どうしたら娘が最初に話す言葉が「パパ」になるだろうか……』生徒たちは意見をくれた。やはり拉致監禁してずっと二人きりで過ごすのが一番確実そうだった。
その日は俺がお迎え担当だったので、保育所まで娘を拉致しに行った。
それはやけに暑い春の日だ。
昼夜の気温差が大きくてうちの母などは体調を崩してしまっていた。
俺も通った学園の保育所には様々な赤ん坊・幼児どもがいて、俺はむらがってくるそいつらをかきわけて、娘を抱き上げる。
世話役の子がやけに大きく叫ぶ。
「あのねー! あのねー! ボール投げたんだよー!」
謎の報告だった。俺は幼児どもによく謎の報告をされる。だから俺はボールの色やかたちをたずねて、投げ合いの感想を求めた。幼児はボールの大きさを身振りで表現して、色を果物にたとえた。
俺は幼児を褒める。そう、報告はそうやって具体的にするのだ……特に必要のない謎の報告に思えても、こうやって丁寧に聞いていけばなにを伝えたいかがわかるのだ。
幼児は楽しかったことと、我が娘にボールがぶつかったことを報告したかったらしい。
俺は娘の体をまさぐってケガがないことを確認する。そして『うん、無事だな』と幼児に向けて言った。
実はすでに保育士の先生からケガがないこともボールがぶつかったことも聞いていたが、幼児の報告を受けてのパフォーマンスとしてわざわざおこなったのだ。
『行為』には『反応』があるほうがいい。子供が『報告』したなら『報告された』なりのリアクションをとるクセが、教育者を続けていくうちに、俺にも身についていた。
まとわりついてくる幼児の相手をいい加減切り上げて、娘に呼びかける。
サラ。
名前を呼ぶと、真っ黒い髪に真っ黒い瞳を持つそいつは、俺のほうを見て、ぼんやりした顔をしていた。
もうじき一歳になるこの子は、もうだいぶ動きもしっかりしていて、自分の意思みたいなものを態度で見せるようになっていた。
最近はパジャマの着方にもこだわりがあるようで、俺が着替えさせるために両腕をあげさせようとしても、『いやだ』という意思をあらわにすることが増えてきた。
なぜだか俺の首筋をくわえるのが好きで、よく俺の襟首をヨダレでべっとべとにする。
そのサラが俺の首筋を口にくわえることもなく、もの言いたげに俺を見上げている。
俺は期待した。まだ赤ん坊争奪戦の結果は出ていない。サラが最初に話すのは、パパか、ママか、ばぁばか、じぃじか……
このタイミングだ。『パパ』だろう。
発音もしやすい。よし勝ったな。帰って風呂入ろう。
俺がジッと顔を見ていると、サラは言う。
「……え……」
え?
「えう……」
えう?
「えう!」
娘のサラはどこかを指さしている。
そこにはボールについて俺に報告してきた女児が存在した。
彼女の名前はエルマ。
「えう! えう!」
……。
そんなまさか嘘だろ……?
まさかサラ、お前……お世話役幼女の名前を最初に呼んだの……?
他人じゃん……
俺はショックを隠しきれなかった。
そしてこの事実をとりあえずなかったことにした。
ああ、今さらながら、わかったことがある。
ミリムが俺の名前を最初に発した時、ミリムの両親はこんな、なんとも言えない気持ちだったんだろうな……
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