89話 論理の外にあるもの

 ほとんど脊髄反射的に、俺とミリムは俺の実家でしばらく寝泊まりすることを決めた。


 それは寒さが厳しくなってきたある日のことだった。

 妊娠中のミリムのおなかはだいぶ目立つ大きさになってきた。出産予定は来年の五月半ばごろなので、考えてみれば、もう半年も経たないうちに俺たちの子が生まれる、そんな時期だ。


 産休もとって自宅で安静していたいこの時期にわざわざ自宅を離れ実家で寝泊まりすることにしたのは、父のためだし、母のためでもある。


 というのも母方の祖父が体調を崩して入院してしまったのだ。


 母はその世話のために里帰りしているのだった。

 いつまでかかるかわかるものではなく、また、母方の実家も俺たちの生活圏よりやや遠くにあるため、母が一人でヘルプに行くこととなったのだ。


 その母はといえば俺への連絡の頻度が増え、母の母(ようするに俺にとっての祖母)と毎日のように病院帰りに街をぶらつき、写真映えする食べ物を撮り、その画像をSNSにあげたりしている。

 むっちゃイキイキしてる。


 ちなみに現在、祖父の状態は安定しているようだった。


 ただまあ、そう長くもないらしい。


 あの年代の男性には珍しくもないのだが、祖父は多少の不調があってもそれを我慢する性分があって、それで色々と発見が遅れてしまったのだとか。

 だから亡くなるまではそばにいると、そういうことらしい。

 もっと期間がはっきりしてしまえば俺たちもそばに行くのだが、現在はなんとも言えない状況らしい。発生する問題に合わせて行動していくしかなく、もどかしくも落ち着かない日々が続きそうだった。


 父は家事を一通りできる男だ。

 だから、母がいないからといって、俺がわざわざ父一人の家に、妊娠中のミリムを連れて来るほどのことはないとも思うのだけれど……


 うん、論理的に、俺が来た理由を分析できない。


 ただ『そうすべきと思った』という以上のことはなかった。

 俺の働く学園も家から近いし、ミリムも産休中だし、『生活基盤を実家に移すこと』に対するハードルが低かった、あたりが理由だろう。


「間に合うといいね」


 ミリムの言葉には主語がなかった。

 これはいつものミリムのクセだが――今回ばかりは、あえてそうしたのだろう。


 ミリムの立場では言いにくいこともある。


 祖父が亡くなる前に、ひ孫の顔を見せてあげられればいいね。

 そう言いたかったのだろう。けれど、それはなんだか言いにくい。

 ……これもまた論理的ではなかった。因習とか、慣習とか、そういう『明文化されていないルール』がミリムに『俺の祖父の死』についての言及を遠慮させたのだ。


 俺はといえば、わりと冷酷で、出産と祖父の死期がかぶらないことを祈るばかりだった。


 なんて薄情なんだろう。

 母方の祖父は寡黙な男で、俺が遊びに行った時も、自分の部屋でジッとすわりこんで、新聞なんかを読んでいるような人物だった。

 けれど優しくて器用な人で、甘えれば不器用そうに笑うし、俺たちが欲するものは、それがハンドメイド可能なものならば、黙々と材料を用意し、手際よく作り上げてしまう。


 俺が飲酒できる年齢になったあと一度だけ一緒に酒を飲んだことがある。

 やはり祖父は静かだった。無言で隣り合って、俺と一緒に酒杯をかたむけるだけだった。でも、それでも、嬉しそうにしてくれていたことを、よく覚えている。


 思い返せば思い返すほど、あんなにいい人が亡くなろうとしているのに、『出産と死期がかぶらないといいな』という心配をしてしまっていることに自己嫌悪してしまう。


「それはしょうがないよ」


 父が寝静まったあと、自己嫌悪を抱えきれなくてついついこぼしてしまった俺に、ミリムが産着を編みながらつぶやいた。

 このあたりの地域では、母が子に産着をあたえると、その子はすこやかに育つという風習があった。

 ぶっちゃけ裁縫は俺のほうがうまいのだが、そういう都合で、ミリムが産着を編んでいるのだ。


 効率は悪い。

 そもそも、産着なんか店で買ったほうがいい。

 それでもミリムは産着を編むし、俺もそれに反対したことは一度もない。

 理論化、明文化できない、大きな力が、俺たちを納得させていた。


「人はそんなにいっぱいのことを考えられないと思う。たぶん、優先順位の問題」


 ミリムの声には、最近になって、相手を諭すような優しさが多くふくまれるようになっている気がした。

 母になるからなのだろうか。それとも、母になる彼女に対し、俺が無意識にそういうロールを押しつけているだけなのだろうか。


「仮に子供がいなかったら、レックスは仕事を休んでおじいさんのところに行ってると思うよ。でも、今は、子供を優先してるから、そうしないだけなんだと思う」


 なるほど、俺は無意識下で決断していた、ということなんだろうか。


『亡くなりそうな祖父』と『生まれそうな子供』があった。

 祖父のことだけを考えるならば、仕事を休むか辞めるかして、祖父のもとへ行き、看病なり延命のための俺にできることなりをすべきだ。


 けれど、俺は生まれてくる子のために仕事を捨てるわけにもいかない。

 ……そもそも、母体というのは不安定なものだ。なにがきっかけで異常が起こるかわかったものじゃない。

 ある意味では、ミリムおよびおなかの子と、祖父とは同じぐらい『目が離せない状況』にあると言えた。


 しかし俺は一人しかおらず、ミリムと祖父の居場所はバラバラだ。


 だから俺は――ミリムを優先したのだろう。

『一人しかない俺がどちらにつくべきか』という選択で、ミリムにつくことを、決断したのだ。


「落ち着いた?」


 頭の中で整理できて、だいぶスッキリした。


 やはりミリムの声には、どこか聖女を感じさせる落ち着きと優しさがあった。

 声だけではなく、性格もまた、なんとなく普段よりなん割か増しで優しさが強まっているような気がする。


 どうやら経験したことのないことが二つも同時に発生して、混乱していたようだ。

 この種の悩みは不慣れだ。だって、こんなにも大事な人が多い人生なんか、今までに一度もなかったから。


 しかしミリムも人生一回目とは思えないほど冷静で、俺はついつい彼女も異世界転生者なんじゃないかと疑ってしまう。

 そもそも、妊娠で一番混乱し、心細くなるべきはミリムのはずだ。俺ではなく、俺以上に当事者である彼女のはずだ。

 それがこの落ち着きにくわえ、俺をなだめる慈愛まで持ち合わせている。

 なんだこのできた嫁は……


「そばで慌ててる人がいると、落ち着くから」


 誰だよ。

 俺だよ。


「あとなんか、今はすごく度胸がついてる。不思議。たいていのことは笑って許せそうだし、たいていのことはこわくない」


 もとからミリムは度胸あるほうだと思うのだが、その彼女がわざわざ『度胸ついてる』と口に出すぐらいだから、よっぽど劇的な心境の変化が起こっているのだろう。

 子供ができるとそうなるのか、ミリムだけに起こった特異な変化なのかはわからない。


 ……ああ、そうか。

 俺の母にとって実の父のはずの男性が今にも亡くなろうとしているのに、母のほうがやたら元気な理由が、なんとなくわかった。


 彼女たちには不思議な度胸があるのだろう。

 論理的は説明できないが、それがきっと正解のように思えた。

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