88話 凪いだ湖にて

「釣りにでも行くか」


 ミリムの懐妊が判明したある夏の日、父から唐突にそんな誘いがあった。


 なにからなにまで前例のない誘いだ。


 まず、父が俺の携帯端末に直接連絡してくること自体が今までなかった。

 だいたい、母を通した連絡が来るのみだった。


 父はインドア派だった。

 海だの山だのに俺を連れていってくれたことは今までに一度もなく、俺が子供のころには遊園地などのレジャー施設に連れていってくれたものの、それは母の意向という意味合いが強く、父自身でなにか遊びを発案することはなかった。


 そして、二人きりで俺と出かけることも、そうそうなかった。


 俺たちは別に仲が悪いわけではない。

 おそらく世の平均的な『父と息子』はこのような関係性なのではないだろうか?

 父は能力はともかくとして、その性質は平凡で平均的な男なものだから、彼が『変わった行動』をするのは珍しく、俺は裏を疑うことも忘れて『あ、うん』と承諾してしまった。


 まあ、今さら父を『敵』の手先とは思っていない――『考慮の余地がない』というよりは『考慮しても仕方がない』という感じだ。

 もしも父や母が『敵』の手先か『敵』そのものだとすれば、俺の人生の大前提が揺らぎ、人生計画は最初の段階で頓挫していたということになる。考えたところで、仕方がないのだ。


「釣りはね、最近始めたんだ」


 父は二本の竿とクーラーボックスをトランクに詰め込んで、車を出した。


 朝の三時だった。朝というかもはや夜だ。

 俺は助手席に座り、夜の道路を疾駆する車の中で、運転する父の横顔をながめる。


 父は神経質そうな細面の男だ。視力が弱く、いつもメガネをかけている。

 体格は肉がつきにくいらしくガリガリで、体を丸めるようにして本を読むことが多いせいか、やや猫背だった。


 真っ黒だった髪にはいつしか白髪がちらほらと見え始めていて、横から見る顔には脂っけがなかった。


 俺たちはただ無言で車の中にいた。ラジオからは道路情報と天気情報が流れてきていて、これから向かう釣り場にはすんなりたどり着けるだろうことがわかった。


 けっきょく目的地に着くまで俺たちは一言もしゃべらず、窓の向こうにある黙々と風景をながめていた。

 ……けれど、ひょっとしたら俺たちが見ていたのは、窓の向こうではなくって、窓に映った父と息子の姿だったのかもしれない。


 目的の湖につくと、父は慣れた様子で場を作り、椅子を出し、釣り竿を並べる。


「そっち、やってみなさい」


 彼はちょっと不慣れな感じで俺にそう言うと、やけにまじめくさった顔で湖のほうへ集中した。

 俺は言われた通り椅子に座り、釣り竿を持つ。

 いくらか待つと俺の釣り竿に魚がかかり、それをとり、父はクーラーボックスに入れた。


「うまいじゃないか」


 俺は褒められて嬉しく思った。

 たかが釣りがうまいと言われたぐらいで、たかが一回のマグレあたりだったけれど、それでもなぜだか、妙に嬉しかったんだ。


「……うん。そうだな。レックス、僕はやっぱり、うまくないらしい」


 獲物のかからない釣り糸をながめながら、父は穏やかに笑った。


「君に語りたいことはたくさんあったはずなんだ。これから親になる君に、君を育てた親として伝えるべきことは、いくらでもあると思うんだ。でもね、君を前にすると、全然話す言葉が浮かばない」


 講師をやっているのにね、と父は言った。

 冗談めかした感じでもなかった。実際、気に病んでしまったのかもしれない。……妙にまじめな父なのだ。


「……うん。そうだ。僕たちはね、けっこう、恵まれた人生を送っていると思う。母さんのおなかにお前ができた時もね、こうして、実の父にも、義理の父にも、連れ出してもらった。考察するに、たぶん、お前のおばあちゃんたちは、母さんを連れ出したりして、色々話してたと思う。父らが僕にしてくれたようにね」


 なんだか学術的な話でもされているかのような口調で、俺は思わず笑ってしまう。

 父は湖から視線を逸らし、俺を見た。


「どうしたんだい?」


 なんでもない、と首を振った。

 そうか、と彼は湖に視線を戻した。


「レックス、君はたぶん、僕らのことをうるさく思う時があるかもしれない。……ああ、それはまさに、今かもしれないし、明日かもしれない。君は昔から、すべてを知っているみたいな、あきらめているような、そういう目をすることがあったから、ずっとずっと昔から、僕らのことをうるさく感じているかもしれないが……」


 ドキリとした。

 俺は父に、俺の転生のことを告げてはいない。

 まじめで、現実的で、論理的な父にその手の話は通じないか、通じたところで必要以上に悩ませてしまうものと判断していたからだ。

 ……まあ、最初のころは、『敵』かもしれない相手にあまり自分の手の内を明かしたくないという思いもあったけれど。


「……僕らはね、君が寿命で死ぬ時に、『恵まれた人生だった』と思ってほしくて、一生懸命なんだ。だから……うん、だからね、君も、君の子に、そうしてあげなさい。うるさがられることもあるかもしれないし、疎んじられるのはおそろしいことだけれど、僕らは僕らにできることをやるしかなくって、僕は、子供のために、やれる限りを、やりたいんだよ」


 父はそれきり黙って、垂らした糸を見つめ続けた。

 最初に俺が釣ったもの以外の収穫はなく、俺たちは昼頃まで、黙って、凪いだ湖を見つめ続けた。


 常に学んで生きてきた。

 効率的に、時間に無駄がないように、寸毫すんごうを惜しんでいた。

 無為な時間を俺は嫌う。

 だから、その観点で言って――


 この、なにも釣れずにすごした数時間は、決して無駄ではなかった。

 長い沈黙もふくめて、大いに学べた時間だと、思った。

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