87話 人生への興味

 日々は俺に緊張を忘れさせていく。


 策略だ、謀略だ、いやこれ自体が『敵』の攻撃そのものだ――そのように俺は心の一番深い部分において必死の警鐘を己に鳴らし続けるのだが、しかし今回の転生先である『人類』の精神は、長く危機にさらされないと弛緩するものらしく、警鐘も無意味となってきていた。


 俺たちは結婚をした。

 そうしたら人生の速度が一段階早くなったように思われて、結婚後の一年はなにごともなくすぎ、二年目もまた過ぎ去ろうとしている。


 俺もミリムも仕事に慣れ、生活に慣れたのだ。

 相変わらず俺たちは互いの仕事を家庭に持ち込まないので、お互いになにをしているのか、詳しいところはわからない。

 たずねるようなことも、しなかった。


『互いが知らないところで、互いがなにをしているのか、興味がない』


 ……などと表現すると『早くも夫婦仲が冷えてるのか』とマーティンあたりにはからかわれるのだが、そうではない。


 俺もミリムも『興味がない』という言葉をネガティブに捉えていないのだ。


 だって俺が熱心になにかを調べる時、そこには危機感があった。

 大学について綿密な調査をしていた時も、職業について熱心な調べ物をしていた時も、俺の心にあったのは不安であり恐怖だった。


『おそろしいから、知っておく』。


 それが俺にとって『興味がある』ということだった。『興味』は不信のあらわれだったのだ。


 だから俺たちが互いに会っていない時なにをしているか全然詮索しないのは、間違いなく信頼のあらわれであり、パートナーが自分の見ていないところでなにかをしていて、その結果、家庭に『なにか』が持ち込まれても対処できるだろうという、自信のあらわれとも言えた。


 だから俺はある日、ミリムに「相談がある」と言われた時も、大した危機感を覚えていなかった。


「そろそろいいと思う」


 ミリムには主語を抜いて話すクセがある。


 俺はそれでも彼女の意図するところをなんとなく察することができていたのだが――今日ばかりはいくらなんでも唐突すぎて、全然わからない。

 俺たちは単語ではなく文脈から物事を判断するタイプの生き物だ。ミリムの主語なし提案にはだいたい文脈があった。


 しかし今日はわからない。

 俺は、なにが? と問いかけた。


「子供」


 あーはいはい子供ね。子供子供。

 わかってたよ。用意は万全だ。


 ……子供!?


「そろそろ産休とってもクビにならない感じになってきたし、今ならやれる」


 なるほど。

 俺は腕を組んで考え込む。


 子供。産休。まあ、世間はだいぶ出産子育てに理解がある。

 保育所で幼児に乳幼児の世話をさせる制度が当たり前のように根付いているあたりがその証左だろう。

 だからミリムが産休をとっても、会社での地位が失われることはないという見立てはもっともだと思う。


 俺が悩んでいるのは別なところで、それは『子供を持つ』ということそのものに対する不安だった。

 子供は金を食う。子供は時間を食う。子供は心をむしばむ。


 子供という存在に対し、俺は肯定的だ。

 俺たちはかつて子供についての話題に触れ、そして、なんとなく『いつかは授かるべきだ』という方向性で、明言しないまでも合意のような雰囲気になったことはあった。


 だが、『いつか授かるべき』の『いつか』が『今』になった時、俺の心にはあらゆる不安と恐怖が――『興味』が出てくるのだ。


 俺は先延ばしできることは先延ばしして、そのまま死んでしまえたらいいと思っているほうだが……

 この話題は先延ばしできない。人類に限らず生命体は『繁殖』という宿命を遺伝子にきざまれておきながら、出産や子育てをどの年齢になってもできるというわけではないのだ。


 俺ももう二十代後半だ。


 今までは『成長』してきたが、これからは『衰え』を覚悟せねばならない。

 衰えを計算に入れ、子供というパワフルな存在を育成しつつ働ける体力などを考慮すれば、『今』子供を授かるかどうか決めるしかない……


 なぜ人類は老後のヒマな時期に子育てできるような設計になっていないんだ……若くて体力がある時期にやるべきことが多すぎる。これは全知無能存在の設計ミスだ。


 あらゆる状況が俺に『決断』をせまっていた。


 決断というのはストレス行為だ。だから俺はなるべく決断をせずに生きていきたい……

 しかし一方で決断を避けられないケースというのも、人生には多くあった。

 ……ああ、そうだ。考えるべきは『命』だ。決断すべき時は、命がかかっている。ならば俺は、俺の命のために決断をしよう。それ以外に大事なことなどないのだから。


 俺は生きているうちに収集したさまざまな情報を思い出す。

 頭の中には走馬燈のように生まれてから今までのことが思い浮かんだ。


 ……ああ、わかってる。『生ききる』ことだけが俺の目的だ。それ以外の寄り道をしているほどの才覚も運勢も俺にはない。

 そう思う。

 そう思うが――

 そう、思いながらも、

 俺は、決断した。


「たしかに、俺たちが子供を授かるにはいい時期だ。そうしよう」


 ミリムが初めてしゃべった言葉が、俺の名前だった。

 その感動を思い出した。その感動を、ミリムにも味わってほしいと思った。


 生きていくうえで『感動』なんか、メシの種にならないことを、俺は当然わかっている。

 情を捨て、他者を利用し、合理性のみで動いたほうが、賢く長生きできることを、俺は身にしみて知っている。


『それができれば長生きできたろうに』と、いくらだって後悔してきて――

 俺はどうやら、それができないらしいことを、よく知っている。


 人は、持って生まれた性格を、変えることはできない。

 だから持って生まれた性格のまま、長く生きようと俺は思う。


 ミリムはうなずく。


「じゃあ、計画を立てよう」


 俺たちはさっそくスケジュール帳に、子供を授かるまでのフローチャートを設計し始めた。

 話し合いは様々な情報を調べながら数日にわたり、ついに俺たちのおおまかなスケジュールは決定したのだった。

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