82話 重なる心
世間にはいくらか規制された情報がある。
俺は情報収集をおこたらない。しかし調べられることには限界があって、たいていの場合、一番知りたいことほど秘匿されている。
たとえば――年収とか。
俺はあらゆる職業の年収を知りたかった。そして業務実態を知りたかった。もっともコストパフォーマンスの高い職業に就きたかったのだ。
もちろん俺の第一目標は『ヒモ』であった。
だから俺は俺の年収よりも、むしろパートナーの年収を上げていきたかった。
そこでミリムが就職するにあたり、俺は、俺自身の就職よりも熱を入れて、あらゆる情報の収集にあたったのである。
しかし――わからない。
もちろん就職情報サイトなんかはあって、そこには年代別の年収一覧がのっていたりする。
けれど情報を収集していくとどうにもキナ臭い感じがあるというか、情報サイトにのっている年収は、賃貸サイトに乗っている『駅から徒歩なん分』みたいな、そういう程度の正確性しかない様子なのであった。
人は早足で歩き続けることはできない。
そりゃあ、必死にがんばって働き続ければもうけは出るのだろう。しかしがんばり続けると疲れる。疲れれば充分なパフォーマンスを発揮できない。
だから俺は『手を抜いて長く続けられ、なおかつもうけが出やすい仕事』を知りたかった。……しかしそんな細かい情報まで知ることはできなくて、けっきょくのところ、ミリムの就職先は、ミリムの意思に任せるしかなかったのである。
だからミリムが出版社勤めをすると決めた時、俺は、反対する言葉を持たなかった。
いや、反対はした。出版社のことは漫画家になったカリナから聞いている。
出版社はおかしな空間だ。みな過労死寸前でヘトヘトになりながら働き、どうにもそれが常態化している様子さえあった。
もちろん会社の大きさや、部署の予算にもよるのだろうが、カリナのいる場所は常に少ない人手で回っており、作家も編集者も心身の限界に常に挑み続けているのだというし、カリナの作家ネットワークで回ってくる情報では、どこも同じような状況だという話だった。
俺の目的は『長生き』である。
そして俺の最終目標が専業主夫であり、妻の稼ぎで暮らしていくことであるならば、当然、妻にも長生きしてほしい。
しかし出版業界はどうにも『細く長く』とは真逆の業界だった。
みんな綺羅星になりたがっている。燃え尽きることに血道をあげているような、業界全体で全力疾走する流星群みたいな業界なのだ。
「わたしは中途半端なのが苦手」
やめておいたほうが……と、代案の出せない都合上、強くは言えない俺に対し、ミリムは断固とした口調で言った。
「半端にひまだと、なんか、やだし……半端にいそがしいのも、なんか、無理。わたしは、いそがしすぎるか、なんにもしないか、どっちかがいい」
ここで『じゃあ二人でヒモをやろう』と言えたらどんなによかったか。
『二人でヒモ』は画期的アイデアだった。俺の理想だった。……けれど、俺かミリム、どちらかしか、ヒモにはなれない……
俺は油田を欲していた。
いや、油田というのはしばらく前の人生で価値があったもので、この人生においては『努力をせずにいくらでも富がわき出てくる私有資源』という意味で、俺は『油田』という言葉を出す癖があった。
なにかないものか……俺たちが働かず、俺たちを養ってくれる、なにかが……
そうだ、カリナだ。カリナに俺たちを養ってもらおう。俺がカリナの秘書として稼ぐ。その稼ぎで……
「レックス……それは、できないよ」
どうしてだ。カリナは今のぼり調子だ。うまくすれば……いや、俺があいつの健康管理と制作指揮をおこなって、うまくやってみせる。だから……
「だって……カリナさんに、わたしたちの生活を支える、義理がないから……」
……たしかにそんな義理はなかった。
カリナの秘書として俺がもらっている収入は『焼き肉をおごってもらう』ぐらいなのだ。
そのぶんを金銭でもらったとしても、俺とミリムが生きていくぶんには足りない。カリナは……俺たちの『油田』にはならなかった……
「あと、人を『油田』扱いは普通に失礼だと思う」
すげーな、その通りだわ……
俺はちょっと錯乱していた。ミリムの前で幾度か『油田』という言葉を使っていたのだろう、ミリムは俺の言う『油田』のニュアンスを細かくとらえていた。
たしかに人に使う言葉ではない……俺は心の中でカリナに謝った。でも本当は養ってほしい。
それにしたってなにも、出版業界という『死ぬほどいそがしいことがすでにわかっている世界』に飛び込むことはないはずだ。
お前なら……お前なら……なんだろう、その、スポーツとか得意じゃなかったっけ?
「レックス、わたしたちが今から、なるべく労力少なくもうけるには、どうしたらいいと思う?」
その話題について俺はいくらでも考えていたので、サッと答えることができた。
まずは宝くじだ。これが当たればだいたいの金銭的憂慮は吹き飛ぶ。
次に株だ。宝くじよりだいぶんギャンブル性が強くなるものの、チャンスさえつかめればもうかると聞く。
だが……俺はこれら手段をとろうとは、一考さえしていなかった。
これらはあまりにも『運』の要素が強すぎるのだ。
そして俺は、自分の運勢を全然信用していない。……今は、大過なくすごしている。だが、俺の不運はいつ俺に牙を剥くかわからない。
だからこそ、俺は『運』の振り幅がなるべく少なくてすむような人生設計をしている。
まあ、宝くじぐらいは仕事をしながらでも買えるので試してみてもいいかもしれないが、『どうせ当たらない』と思いつつ買うくじほどむなしいものはない。
「そう、だから……わたしは、本を書くべきだと思っている」
本。
「本は、大ヒットすれば大きいし、ヒットしなくても、出版さえできれば、ある程度の収入になる。もしもうまくいって専業作家になることができたら……ずっと、家で、いっしょ」
それは俺になかった視点だった。
なるほど、本! たしかに最近は兼業作家も多いと聞く。そういった人たちは本業のかたわら本を出しているから、きっと出版のもうけはまるまる貯金にできているはずだ。
「出版社つとめで、イヤでも本を読むことになるから、勉強もできる……レックス、わたしも……なるべくなら、働かないで、ずっといっしょに、ぼんやりしてたい。だから、そのために、出版社でがんばる」
俺は頭にガツンと強い一撃を受けたかのような心地だった。
ミリムだって考えていたんだ。そして――ミリムもまた、『働きたくない者』だったのだ。
そうだ、俺たちは今までどうすごしてきた? ぼんやりしてきた。二人で一緒に、なにをするでもなくすごしてきた。
俺たちは――ぼんやりするのが、大好きだ。
ああ……俺は今、感動に打ち震えている。
俺たちは同じ志を持っていた。ずっと同じ志を持ち続けていたんだ。アプローチの方法こそ違うが、俺もミリムも、『運に頼りすぎることなく、自活しつつ、働きたくない』という同一の意思を持っていたんだ。
俺たちは働かないために働く。
結婚前に、俺たちは、二人の心が一緒だということを再確認しあった。
俺たちはどちらからともなく抱きしめあい、「働きたくないよね」「ああ」と不労の意思をたしかめあった。
俺たちの心は一つだった。ミリム……一緒に、働かないですむ人生を目指そう。
俺たちはアーリーリタイアを目指している。
ミリムの不労のための就職一年目が、そして俺の就職二年目が、始まろうとしていた……
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