71話 現実処理能力

「ひょっとしてレックスは同人誌作りから足を洗いたかったのかな……」


 俺が『就職、どう?』と聞いたら、カリナはそんなことを言った。


 その日はやけに肌寒く、また乾燥した日だった。

 吐く息は当然のように白くて、手の甲や唇がガサガサしている。


 俺たちは俺の淹れた温かいお茶を飲んで過ごしている。冬祭りは近く、けれど俺たちには焦りがなかった。

 作業は順調に進んでいて、そのことに俺たちはわずかばかりの寂しささえ感じていたのだ。


「ボクなりに――」カリナの一人称はなぜか中等部時代のものに戻っていた。「――考えたんだけど、今思うと、レックスはあの時、BL同人誌の制作指揮をやめるって言ってたような気がするんだよね」


 気がするっていうか……

 普通に言ったよ。


 バッチリ聞こえるタイミングで、バッチリ聞こえるように言った。

『えっ、なんで!? やめちゃうの!?』と反応もされた。

 だからバッチリ聞こえてたと思うんだけど、なぜかカリナは『今気づいた』みたいに言う。


「レックス、ボクたちはね、話を聞いてる。でも、話を聞いてないんだ」


 またカリナが始まった。

 カリナは俺にとって不可解なことをよく述べる。

 カリナなりの理論というか、生態というか……俺からは理解しがたい謎の法則によってカリナは生きており、それは、カリナのまわりに集まる漫画描きたちも、同じ様子だった。


「たぶん、ボクたちは主張が強すぎるんだ。頭の中でなにかを思いつく。すると、その思いつきにばかり気をとられて、人がなにか言っても全然頭に入らない……そういうことがよくあるんだよ」


 そりゃあ、大なり小なり、人にはそういうところあると思うけど……


「そんな話じゃあないんだ。どう言えばいいのかな……そうだ、物語。ボクらは現実のことを自分の描いている物語だと思っているフシがあって、『このシーンはこのメッセージ』と無意識に頭の中で定めたなら、そのシーンにはそれ以外のメッセージを持たせることができない……」


 ??????????


「レックスがBL同人誌の制作指揮をやめると言ったのは、事実なんだと思う。ボクはきっとなんらかの反応をしたんだろう……でも、ボクの記憶だと、そのシーンは『レックスがスケジュールマネージャーに昇格したシーン』として記憶されていて、それ以外のことは覚えておけないんだ」


 やべぇ、なにを言われているかわからない……

 カリナさん面接とか……大丈夫ですか?


「そう、そのことなんだよね。面接……ひいては就職……ボクはしない。漫画家として生きていくつもりだ。もう、そう腹をくくった」


 そうなのか。

 それは不確かな道だし、俺としてはまったく推奨しないんだけれど、カリナの道だからな。カリナがいいなら、他人の俺がどうこう言うべきことじゃないだろう。


「しかしねレックス、今は、いつだい?」


 十二月ですね。


「そうなんだ。十二月なんだ。そうしてあと二ヶ月もすると……始まるんだよ」


 なにがだよ。


「確定申告」


 …………。

 それは税金まわりのアレコレで、収入が一定以上の者は誰しもやらなければならない国民の義務だ。

 当然ながら知っている――国という庇護者からの庇護を受けて生きているのだから、税を取り立てられるのは自然なことだ。医療、ライフライン、その他サービスは、国という基盤あってこそ受けられるものなのである。


 だが、妙なことに、学校では確定申告について教えてくれないのだ。


 だから俺も独学でやるしかなかった――まあ俺はまだ確定申告をする立場でもないので、エア確定申告をして、将来に備えているだけなのだが。

 しかし実際に俺が自分の手でやることも、きっとないだろう。

 世の中にはそういった税務関係を専門にしている職業もあるのだ。そういった人たちに金銭を支払って依頼すれば、よほど安全で確実に確定申告をしてもらえるものと思う。


「レックス、あのね、ボクたちの仕事は収入が微妙で、『税理士にお願いするほどでもないのだけれど、なるべく多く控除されたい』という状況が発生するんだ。その場合……自力で確定申告をするしかない……」


 ちょっと想像がつかない状況だが、まあ、俺は漫画関係にかんして門外漢だ。

 その道に進もうとしているカリナが『ある』と言うなら、そんな状況もあるのだろう。


「しかしレックス……ボクは押し寄せる現実に対処できないんだ」


 ちょっとなにをおっしゃっているのかわからないです。


「世の中には『やらなきゃいけない現実的作業』があるだろう? たとえば……就職の面接の準備とか、試験前の勉強とか、部屋の掃除とか……ボクは、そういうの、ダメなんだ。『やらなきゃいけない』ことはわかるんだけど、やれないんだよ。やろうと思うと、体が全然動かなくなるんだよ」


 いや……

 やる気出すべきでしょ……


「レックス、ボクの生きている世界は現実じゃないんだ。夢の世界に、生きているんだよ」


 呼吸止めてみたら自分の居場所が現実だって理解できると思うよ。


「そういう話じゃないんだ。君にはわからないかもしれないが……どうしても現実的な作業ができない人っていうのは、世の中にいるんだよ」


 まあ、うーん……そうだな。そういう症状もあるのかもしれない。

 決めつけと思い込みは世界を狭め、死角を増やす。

 なにごとも『あるかもしれない』と思って生きる、かもしれない人生を生きている俺が、みだりに『それはない』と決めつけるべきではないだろう。


「まあだからね……レックス、ボクの確定申告をやってくれないか?」


 それはない。


「お金は払う。そうだ! 肉はどうだい!? 焼き肉! 映画とか連れて行ってあげるよ!」


 カリナがやけに必死だった。

 俺に払う金があるなら税理士に払えよと言うけれど、なんかモニョモニョ言うだけだ。なんらかの事情でそれはイヤらしい。

 たぶん新しい相手とコミュニケーションを始めるのがイヤだとか、そういう理由だと思う。


 俺は迷った。まず『なんで俺がそこまで?』というまっとうな疑問が浮かぶ。

 確定申告とか収入も支出も細かく見ないとやってられないので、当然ながらカリナの金の動きは俺にさらされることになる。他人だぞ俺。俺の前に家族に頼めよ……


「家族には普通に就職するって言ってあるんだ」


 まずいやつじゃんそれ……


 わからない。なぜ俺はカリナ関係でこんなに色々抱え込みそうになってるんだろう……俺はカリナのなんなんだ? ママか? ママなのか?

 俺自身の人生をストレスフリーにしてるはずなのに、カリナまわりでなんだか妙に抱え込んでいる……これが英雄に巻き込まれた一般人である。


 だがここで一つの光明が俺の心によぎった。


 すなわち『変則的ヒモ』と呼ばれる立ち位置に、俺は就けるのではないか? という疑問だ。

 カリナのスケジュール管理やら財政管理やらを任される立場はまさしく秘書だった。そして秘書とは『ヒモをかっこうよく言っただけの職業』という認識だ(怒られそうなので表では言えない)。


 人生の選択肢は多いほうがいいに決まっていて、今の俺には『普通に就職』『親の経営する塾で働く』『ミリムのヒモ』という三つの選択肢がある。

 ここに『カリナの秘書』を加えるのはなかなかやぶさかではないと思う。商業漫画家としてカリナが成功した場合、そのリターンもまた、大きいものになるだろうと予想できるからだ。


 そのルートを閉ざすのはいかにも惜しいように思われて、俺は『わかったよ』と承諾した。


「やった! じゃあ領収書とかあとで渡すから!」


 ――二十一歳を迎えた冬の日。

 俺は――確定申告を始めた。

 人の確定申告を、始めたんだ――

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