72話 未知の領域へ

 進むべき方向を定めても、やはり迷う心は消えなかった。


 毎日のように悩んでいる。

 きっと俺の経験か、あるいは直感が、『ここでの選択は一生を左右するものになる』と理解しているのだ。


 あるいは、そう思っているだけ、なのかもしれない。


『直面している時には重大に思えた選択が、すぎてみれば意外と矮小わいしょうなものだった』ということだって、数多く経験している。


 問題は、今、この選択が重大か矮小かは、やはり未来に振り返ってみなければわからない、ということだ。

 予想はできても確定はできない――人生は生きるたびに新しく、生きるたびに、難しい。


 ともあれ二十一年というこれまでになかなかない年数をすでに生きたのだ。

 ここまでの選択はあまり間違ってはいなかったということにして、自分を信じて生きていきたい。


 寒すぎた冬が終わるとあっというまに暑くなり、バイトを辞めるための引き継ぎをしているあいだにいつしか秋がせまってきて、一瞬で過ぎ去った。


 俺は好んでいそがしい日々を過ごした。

 迷うし悩むからだ。ぼんやりしているとどうしても重苦しい不安が心にのしかかってきて、それを振り払うために多忙の中に身を投じた。


 自ら多忙の中に身をおいて思うことがあった。


 俺は働きたくないが、いそがしくはしていたい。


 これはまったく意外な心境だった。

 いそがしいというのは時間がないということだ。『時間にゆとりをもつこと』がストレスを軽減し、ひいては寿命をのばすと信じ切っている俺は、『なるべくいそがしくない人生を』と思っていたはずだった。


 ところがちょっとした旅行に行ったり、就職に備えた活動をしたり、バイトの引き継ぎをやったり、他人の確定申告をしたりしているうちに、そこに充実感を覚え始めている俺がいた。


 この充実感というのが生きるために重要な要素っぽい。


 充実している、というのは言い換えれば『満足している』とも言える。他者とのかかわりの中で自らの存在を認められ、楽しい疲労を覚えてベッドにもぐりこむ。適度にうまいものを食べ、アトラクションを楽しみ、イベントへ行く。


 これまでの人生、そういう騒がしい人生は『縁がないもの』と思っていた。

 というか、『楽しく騒がしい人生』が、縁のないものだった。


 俺の百万回の人生は局所的に騒がしかった。

『きゃー、わー』という感じの騒がしさではない。『ドンパチ』という感じの騒がしさだ。


 つまり――今までは『騒がしい状況』イコール『死と隣り合わせ』だったのだ。


 しかし今回の人生、いくら騒がしくっても……命の危険を感じることがない。


 そうだ、俺は死にたくないだけなのだった。死なないなら、それでいいのだった。

 本末転倒だ。『生ききる』という目的のために気をはらって、自分を押し込めて……そのストレスで早死にしては、意味がないだろうに。


 俺はもうすぐ就職する。

 これからの人生はいそがしく、さわがしいものになるだろう。


 迷いも悩みも期待も不安も抱えたまま、ただ、時間は一定の速さで進み続ける。

 惑いに結論は出せないままだし、むしろ、自分の将来について『正しい選択』を検討する時間を自ら減らしていたような気さえするけれど――


 それでも俺は、この春から教師になる。


 俺が大人になれるかは、大人になっても、きっとわからないままだろう。

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