70話 夏のある日

 水のきらめきが目に刺さるような日だった。


 中天には世界全土を照らす天体が存在した。日に日に暑くなっていく季節は、一度解決したはずの俺の『将来への不安』をじりじりと焦がして顕在化させていく。


 さりとて心にくすぶる焦燥感に対してできることもそれほどなかった。

 俺はすでに充分に学業をし、心の準備をしている。アルバイトで稼いだお金は大半が貯金にまわされ、仮に就職を決められなくてもしばらく食いつなぐ用意もあったし、そもそも父の経営する塾に就職するという滑り止めさえあった。


 万全の用意をしているのだから安心するべきだと頭ではわかっているのだけれど、この脆弱なる人類という肉体に宿った俺の未熟な精神は、すぐに不安と焦りで揺れ動く。

 そんな俺の様子を感じ取ったのか、珍しくミリムのほうからお誘いがあった。


「プール行こう」


 それは俺が中学のころにカリナたちと行ったプールだった。


 月日はすぎて世間は変わっている。幼いころに遊んだ公園はいつのまにか駐車場になっていて、近場の商店はチェーン店へと変貌していた。

 老夫婦がいとなんでいた料理店はでかいマンションに吸収されあとかたもなく、初等部時代をすごした校舎さえ、改築されてそのシルエットを少しとはいえ変えてしまっていた。


 ミリムと二人でプールサイドに立った俺は、人混みや客層もふくめて当時と変わらないプールの様子に、なんとも言えない感動を覚えていた。

 そう、このプールは『立方体』だった――俺があこがれてやまぬかたち。『不変』と『永遠』を表す形状。変わらぬまま有り続け、変わらぬまま愛される。俺の目指すべきもの……立方体そのものだった。


 俺、立方体になる。立方体になるよ……


「レックス、やっぱり疲れてたんだね」


 俺は疲れていたようだった。


 ミリムの提案で俺たちはプールサイドあたりに立って、ぼんやりと遊泳に来た客たちをながめることにした。

 夏休みに突入しているだけあって、学生が多い。家族連れもいた。プールは広いはずなのに、これだけの人がいると、どうしても手狭に見えた。


 そんな中、ふと俺の目にとまったのは、幼い女の子だった。


 水着姿の幼い女の子を目で追う――というといかにも不審者だが、俺が目で追っているのは女の子だけではなかった。男の子も追っているのでバランスはとれている。


 どうやら男の子と女の子はデートに来ていたようだった。

 ギリギリ保護者が同伴しなくてもいいぐらいの年齢の二人だ。初々しいその二人の様子を見ていると共感を覚える。俺とミリムにもあんな時代が……と、思ったが俺とミリムはあの地点にさえいたっていない……恋人らしいこと一つもしてない。初々しい以前の問題だった。


 ごめんな、と俺はなんだか謝った。


「どうしたの?」


 その問いに答えられなかった。

 だって謝りたいことが多すぎたんだ。たくさん彼女に言いたいことがある。胸の中にはいくつもの言葉が渦巻いている。それらの言葉には優先順位がちっともつけられなくて、だからのどでつかえて、出てこない。


 俺はもう一度、ごめんな、と言った。

 それから、ありがとう、と言った。


 なにも伝わらないだろう。

 でも、なにかが感じ取れたらしい。


 ミリムは黙って俺の手をとった。

 俺も少しだけ、とられた手に力を入れた。


 相変わらず俺たちのあいだに言葉はなくて、俺たちがなぜ今こうしているのかは、きっと誰にも説明できない。

 わからないことだらけの夏のある日、でも、今日は子供のころのように精一杯遊べそうな予感だけは、たしかにあった。

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