61話 はるのはなし

 気温の低さにいつまでもコートをしまえないでいるうちに、すっかりクリーニングに出す機会を逸してしまった。


 学年が始まったころにはすでに春の花は散っていた。寒空の下で花見をした人々が体調を崩すニュースなんかも聞こえてくる中、気持ち欠席者多めで新しい学年は始まった。


 俺はといえばやはり普通に講義に出るし、サークル活動はしてないし(カリナのサークルでの活動は断るタイミングをなくしてしまったが)、あとはバイトぐらいなもので、退屈な大学生活を送っていた。


 いよいよミリムも大学に入ってきたので彼女と過ごす時間は増えたものの、俺たちはやっぱり進展らしきものはなく、ただ一緒にすごし、ただ一緒に遊び、ただ一緒に帰っていた。


 人生が安定期に入っている感じがする。


 これは俺の百万回の人生においても、たまにある瞬間だった。

 安定期……ようするに『あ、今日と同じような日がしばらく続くな』と思える時期はたしかにあって、そんな時にこそ『今後起こるなにか』への準備をしておくことこそが、長生きの秘訣だと俺は思っている。


 だがこの人生はなにも『予感』がない。


『敵』の意図が見えなさすぎるのだ。

 そろそろ俺は油断していると思うのだが、それでも『敵』はやってこない。俺になにもしない。


 これは『うまく敵からの注目を回避できている』と受け取るべきか、あるいは『今回の敵はよほど慎重だ』と思うべきか……

 俺の求める答えはたくさんあった。知りたいことは数知れない。だというのに、俺が本当に知りたいことを知るのは、いつだって命が尽きる瞬間なのだ。


『生ききる』ことを目的としている以上、『生ききった』あとにしか、自分の行動が目的のために正しかったのかは、わからない。


 事件はほしくないが、自分の行動が間違いではないという確信はほしい。

 俺が『なにか起こらないかな』と花の散った街路樹を見上げる時はだいたいそんな心境で、隣を歩くミリムも一緒に立ち止まって枝を見ているが、同じ気持ちかどうかは、わからなかった。


 なに考えてる? と彼女に聞いた。


「枝……」


 そうだね、枝だね。


 ミリムはちょっとぽやぽやしたところがある。

 彼女はひょっとしたら生きるのがめんどうくさいのかもしれない。

 気持ちはわかる。俺だってそうだ。生きるってのは、考えて行動を決め続ける荒行だ。できたらしたくはない……だが、俺はそうして生ききらなければ、また次の人生が始まってしまうのだからしょうがない。


 俺はミリムになんとなく告げた。

 実は俺、百万回生きたんだ。


「ふぅん」


 疑うでもなく、信じるという感じでもなく、ミリムはただそう言った。

 俺は俺で、なぜ今このタイミングでそんな秘密を明かしたのか、自分で疑問に思っていた。『するりと口から出た』と言うしかない、それは不可思議なタイミングでの、する必要のなかった告白だった。


 したあとも、『まあいいや』という感じだった。


 ミリムといると、よく、こういう空気になる。

 弛緩しているというか、安らいでいるというか。


 頭に浮かんだことをそのままポツリポツリと言ってしまって、でも後悔なんか全然しない、そういう時間だ。

 だから俺は、こうも言った。


 俺、お前と相性いいかもしれない。


「わたしも」


 俺たちはそのまま、なんとなく帰路についた。

 ただそれだけの春の日だった。

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