52話 もし最初に出会った女性をメインヒロインと言うならば

 あこがれは人を変える。


 たとえば十八年ほど前、俺は世界すべてを憎んでいるし疑っているし、どんな世界に生まれようとも敵以外存在しないと思っていた。


『戦いは生まれた瞬間に始まっている』

 この世界で長く生きていると比喩としか思えなくなるこの言葉は、俺の標語であり、俺のリアルだった。

 生を受けた瞬間から競走は始まっていて、『誰かが死ぬこと』が唯一、自分の生存時間をのばしてくれる筋道だと本気で信じていたのだ。


 それを変えてくれた女性がいた。


 ママだ。


 生後数分の俺が『この世界には信じてもいい相手がいる』と思えたのはあきらかに彼女のおかげだった。

 思えば俺が思い悩む時、いつでも彼女は有言不言問わずアドバイスをくれた。俺の悩みは俺が解決するものだけれど、そのヒントとなるものをくれたのは、ママだったのだ。


 十八歳の冬、自己の成長が伸び悩み、しかし打開のヒントさえない状況だった俺に、天啓のように連絡をくれたのも、やはりママだった。


「大学行ったら、一人暮らしする?」


 それは実に意外な言葉で、俺はしばらく応対に困った。


 一人暮らし。

 たしかに大学進学を機にそういうことを始める者は多いと聞く。データの収集をしていなかったので実数は不明だが、クラスにもなん人か、一人暮らしを始める者はいるようだった。


 一人暮らしを始める者には様々な事情はあるが、やはり『距離』というのが一番大きな動機だろう。

 単純に大学までの距離が家から遠く、通学に二時間も三時間もかけてはいられない都合上、大学そばのアパートメントなどを借りるという者が多い。


 けれど俺の進む大学は、保育所から高等科まで進んだ学園のいち施設だ。

 今住んでいる家からはさほど距離がない――つまり、特段一人暮らしをするような理由はないはずなのだが……


「あなたは反抗期もなくって、いい子だったけれど……それでも、実家暮らしだと、色々きゅうくつな思いをさせているんじゃないかって」


 きゅうくつなどと、そんなことを感じてはいなかった。

 むしろ俺は一生実家暮らしをしたいぐらいだった。

 もちろん、俺が社会人になれば家にいくらかのお金をおさめないといけなくなるだろうが、いや、この両親ならばそんなことは要求しなさそうな気もするが、とにかく金を払ってでも実家で暮らしていたいと俺は思っている。


 なぜって一人暮らしをする、すなわち『新しい家に一人で住む』と、増えるのだ。

 そう――手続きが!


 家賃水道光熱費!

 通信費!

 その他雑費!


 この世界はすべてが契約で成り立ち、書面に名前を書きハンコを押さなければ水も飲めないありさまとなっている。

 俺がおそれているのはこの『契約』だった。

 家事、倹約、果てはサバイバルまで幅広く『生きていく』ための知識や技術を身につけ、いくらかの実践もしている俺ではあるが……

 まだ水道などの契約を結んだことは一度もないのだ。


 俺は契約というものをおそれていた。

 それはハンコをついた瞬間から自分の体にのしかかる重しのように感じられたのだ。

 二年間変更できない、すれば違約金が発生するというシステムもまた、俺の心にストレスをかける。


 そして家賃、契約更新、さらには――敷金礼金!

『どうしてそんな色々項目を分けてお金をとっていくの?』というシステムがこの世にはあまりに多すぎる。

 俺は金を払うたび寿命を削られているような心地を味わうタイプなので、細々と、総合金額的にはたくさん、社会インフラや保険にお金を払うのがだいぶイヤなのだ。


 いや、生きていればいずれ払わされるのは間違いない……けれど扶養されている今の立場ならば、家長として父がそのへんの手続きをしてくれる。

 父がやってくれる限りにおいて、俺は『うわ……こんなにとられるの……? なんで……?』みたいなストレスを味わうことなく、父になんとなく要求されたお金を払うだけでいい。

 金額は変わらなくとも、意味のわからないものに金をとられるより、父に払うほうが幾分か気持ちがマシなのだ。


 手続きの多さはそのまま寿命へのダメージとなる。


 俺は寿命へのダメージを負いたくない。


 よって実家暮らしという立場を手放したくない。


 だが。


 ……だが、ママの声はいつだって天啓だった。

 俺の一人暮らしなど、現在専業主婦になっているママよりも、塾経営し生活費を稼いでいるパパのほうから持ちかけるべき話題だろう。

 だというのにママの口から話されたということに、俺はなにか、大いなる意思のようなものを感じていた。


 大いなる意思。運命。

 運命とはすなわち敵だった。俺を百万回転生させ続けた全知無能存在が司るものだからだ。

 運命は俺から様々なものを奪い、今もなお奪い続けている。


 だというのに、ママを通して知らされた運命には、まったく敵愾心てきがいしんがわかない。

 不思議なものだ。……最初から、こうだった。彼女の声には、俺に大胆な決断をさせる勇気をもたらし、そして、俺に『この世界』の優しさを信じさせてくれる不思議な響きがある。


 ママが言うならば、それはきっと、今後の俺にとって必要なことなんだろうなと、そう思えるのだ。


 俺はうなずく。

 わかった。一人暮らしをするよ――


「じゃあ、細かい話は、お父さんと三人でしましょうね」


 ちなみに――

 このあと、父に一人暮らしのことについて話したら、めっちゃおどろかれた。

 一人暮らしの話は、ママが独断(思いつき)で俺にもちかけたらしい。


 うちのママはこういうところがあるのだが……

 まあ、俺も父も、最後には『ママが言うならしょうがないか』と笑った。


 うちの家族は母に弱い。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る