50話 神の顕現

 人は数ヶ月ごとに記憶喪失になる生き物だ。


 地獄を見たはずだった。

 せまる締め切り、真っ白な原稿、『一日に五日ぶんのペースで毎日ノルマをこなせば』という無茶なスケジュールはぶっちゃけ普通に寿命を削っていると思う。


 それは間違いなく二度と繰り返したくはない苦しみのはずで、きちんと計画を立てその通りに行動すれば避けられた苦しみのはずだった。

 だからきっと、カリナは去年のことを忘れてしまったに違いない。


「いや、忘れてはいないよ。私たちはきちんと覚えている。去年、大変な目に遭った。もうコピー機で印刷して手作業で製本するしかないんじゃないかという進行スケジュールだった。……でも、私たちは、覚えているんだ。『そんなスケジュールだったのに、どうにかなった』っていうことを――」


 シンプルに死んだほうがいいと思った。


 ハッ! いけないいけない……俺は穏やかな心を持つ十七歳。

 百万回の転生経験は俺の『感情』と『言動』のあいだにたしかな壁を作った。もちろん心が乱されることは避けられないが、それでも、感情がそのまま表に出るような未熟なことにはならないのが、俺である。


 たとえ――

『印刷所に待ってもらえるのがあと五日で、すべてのページが白紙であり、今回はフルカラーでやろう。うん、二十ページ』

 とかいうことになっていても、穏やかな態度で的確なスケジューリングをしなければならない。


 五日でこの作業をこなすには、どういう進行表を作ればいい?

 考えろ……なぜ俺がスケジュール管理を一任されているのかいっさいわからないのだが、というか俺にスケジュール管理と雑務を任せきる用意が最初からされていたのが気になってたまらないのだが、今はスケジュール管理のために使う時間さえ惜しい。


 まず必要ないものから切り捨てていって時間を確保せねばならない。

 睡眠……睡眠か……睡眠、いる? どう? いやいるか。そうだなええと、三十分ぐらいでいいか。次は食事……まあ人ならば食事も睡眠もいるんだけれど、人のままではこなせないスケジュールなので、人であることは捨てるとして……


 計画ができあがった。

 俺たちは白紙を埋めていく。


『インスピレーションがなくて展開が浮かばない』と言うものあらば本棚でたまたま目についた漫画をバーッとめくり『この展開パクれ!』と返し、『突然主人公の顔が認識できなくなって描けない』と言う者あらば『前髪伸ばせ! もしくは影!』と返した。


 エナジーポーションで精神高揚を維持しながら栄養ドリンクをむさぼる姿は、まさに『文明人が野生化したらこうなるだろう』という感じだ。

 文明的野人と化した女子が発する熱量はすさまじく、クーラーの効いた部屋の中で脳みそがゆだるような気持ちを味わいながら俺は丸投げされているコスプレ衣装をガンガン仕上げていった。


『徹夜』と『思うほどには進まない作業へのストレス』で俺たちは殺気だっており、何度か殺し合いに発展しかけることもあった。


 そのたびに一服の清涼剤として機能したのが、連れてきたミリムの存在である。

 ミリムは獣人種なのだ――獣のような耳としっぽが生えている。そして……モフモフしたものには精神鎮静作用があった。


 俺たちは気持ちが高ぶるたびミリムをモフった。ミリムには部屋で一番広い場所に寝床を用意し、お風呂も食事も自由にとっていただき、毛づやを維持してもらった。


 四日も経ったころ、部屋はミリム様という唯一神を信仰する宗教組織の秘密基地と化しており、日に日にミリム様に供えられる栄養ドリンクの数は増え、三十分しか確保していない睡眠時間で目を血走らせながらミリム様用の祭壇を作ったりもした。


 だんだん俺たちは言葉を失い、『ミリム様』という言語だけで会話をするようになっていった……「ミリム様?」「ミリム様」「ミリ……ミリム様!?」「ミリムさまぁ~!」俺たちはそれですべての意思疎通をすませた。

 なぜ疎通が可能だったのか、あとから振り返るとさっぱりわからない。


 俺たちがすっかり『ミリム様』以外の言語を忘れ、固形物で食事をとらなくても生きていけそうな確信が芽生え、妙な光が視界に常にチラつくようになったころ、ようやく原稿とコスプレ衣装は完成した。


 それはまぎれもなく奇跡的なペースでの入稿だった。

 すべてを終えた俺たちは放射状にミリムを取り囲んで作業の終了を報告するための礼拝をした。

 四方を囲まれ土下座されるミリムは無表情だったが、ケツ側にいた俺はしっぽの動きで彼女の内心がわかる。めっちゃ困惑してるし、軽くおびえてもいた。


 今回の鬼気迫る進行を振り返り、カリナは言う。


「本気でやれば……このぐらいは、できるんだね」


 そのやりきった表情は間違いなく神話級の激闘を制した英傑のものだった。

 たしかに俺たちは超えたのだ。あの無茶で無謀なスケジュールを……『しなくていい激闘はしない』という信条の俺でさえ、ちょっとグッとくる達成感がある。涙が流れっぱなしで止まらない。変な光が見える。ミリム様の光……


 この感動はなにものにも代えがたいだろう。きっと、一生忘れないだろう。


 でも、俺は思うんだ。

 人生には余力が必要で――


 また俺にスケジュール管理をさせようと思うなら、もっと早く呼べ、って――

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