49話 沼

 からりとした暑さがあたりを満たすころ、俺は学園に進学内定をもらい、ミリムとどこかに出かける頻度も増えてきた。


 特別なことはなにもしていない。

 せっかくの恋愛試用期間なのだからなにか特別なチャレンジをしてみるべきなのかもしれないが、ぶっちゃけなにをしていいか想像もつかず、「まあいいんじゃない?」というミリムの厚意に甘えて、俺たちは今までと同様に遊んだり学んだりしていた。


 不思議なものだ。なにも起こっていない。断じてなにも起こっていないのだが、夏の暑さが高まるにつれて、『なにかが起こりそう』という期待だけがどんどん高まっていく。


 そんなおり、一通のメッセージが再び俺を混沌のるつぼへといざなうことになる。


「今年の夏は、どう? 受験?」


 それはカリナからのお誘い……いや、いざないだった。

 昨年カリナとともに腐海をのぞきこんだ俺には、腐海のにおいがしみついているらしい……そのにおいを目指して、カリナがまた闇の中から俺に手を伸ばしてきたのである。


 ようするに同人誌即売会の手伝いのお誘いだ。


 俺はすかさず『受験はどうしたの?』と返した。

 カリナとは昨年、『冬もよろしく』『受験は?』というやりとりを既読無視されてから音信不通だったのだ。


 どうにか大学には合格し、サークル活動なんかしているらしいという報告を聞いて、俺はホッと胸をなでおろす。

 俺たちはカリナが先輩、俺が後輩というあいだがらだが、奇妙な縁から俺がカリナに勉強を教えたこともあったのだ。

 カリナの勉強方面はそれ以来地味に気にしているし、なんなら受験勉強で頼られるものだという想定もしていた――まあ、その想定は外れたわけだが。


 さて、カリナの本造りの手伝いだが、俺は再び参加してもかまわないような気持ちでいた。


 あの時間はたしかにこう、なに? なんていうの? 充実感というか、満足感というか……『沼に引き込まれた』ような感覚があって、あのあと俺も単身で同人誌作製を始めようかと思ったぐらいだった。


 しかし冬祭りの申し込みは夏祭り終了直後ぐらいに締め切られるという話で、そんなことを知らなかった俺は申し込みをしていなかった都合上、冬祭り単身デビューはあきらめたわけだが……


 あの夏のムワッとした充実感をもう一度味わいたい気持ちはたしかにあったのだ。


 だが今の俺は彼女持ち。

 同人誌造りは女性三名と泊まり込みでの作業になる……冷静に考えればどういう状況だとツッコミたくもなる。

 ぶっちゃけ作業が大変すぎてカリナたちとはおどろくほどなにもなかったし、今年もきっとなにもないが、それはミリムに対する不貞と見られかねないような気がした。


 そこで俺に天啓がおりてきた。


 常々ミリムとの関係性に新しい刺激が必要だと感じていたが、なにをもって『新しい刺激』としていいかわからないことで悩んでいた。

 しかしここに『夏祭り』というイベントが発生する――俺はミリムを引きずり込もうと思った。あの腐臭のする沼の中で、ぬたぬたとした充足感をともに味わおうと考えたのだった。


「わかった。行く」


 ミリムは神妙な顔で承諾した。

 あんまりにもアッサリな承諾で俺はちょっと拍子抜けしたぐらいだ――なにせ『女三人、徹夜連続、風呂さえまともに入る時間がない。部屋の中は地獄と化す』みたいな話をしたのである。

 話しているあいだにだんだん『断られるだろうな』という気持ちが高まってきていた俺としては、ミリムの一も二もない承諾は意外と言うよりなかった。

 ひょっとして『地獄』が通じなかったのだろうか――百万回も転生していると『死後に落ちる悪いところ』をたくさん記憶していて、この記憶の引き出しがこんがらがることがある。


 しかし意味は通じていたようだ。

 理由を聞いてもミリムは「行く」と言うばかりで、まあそれならそれでいいか、と思い、俺はカリナに連絡し、今年はミリムも作業にくわわるのだと告げた。


「沼へようこそ」


 カリナは歓迎してくれた。

 こうして俺たちは深く暗い沼へと足を踏み入れることになる。

 去年を上回る混沌がそこにあるなどと、まったく知らずに……

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