48話 雨雲のすきまから
常になまぬるいプールにつかっているかのような、湿度と気温の高い季節がおとずれた。
この時期は生きているだけでストレスがたまっていく。
生きるとは苦しむことだ――そういう考えかたもあって、俺はその考えにだいたい賛同している。早く死ぬにこしたことはなく、俺の『生ききる』という目標はすなわち『無限転生という苦の輪廻から一刻も早く脱したい』、ようするに『死にたい』とも換言できる。
三年生の教室は受験へ向けたピリピリとジメジメ気温へのストレスがあいまって、不機嫌のるつぼと化している。
俺はもちろん目立たないことを目標に生きているわけだから、いらない騒ぎを好まない。
だから明らかにいらだっていそうなヤツとはかかわらないようにつとめるわけだが、三十人超が詰め込まれた教室内では限度があって、今回俺が巻き込まれた騒動もまた、そういう、避けようのない、ある意味では『いつもの不運』というものなのだろう。
「成績トップのエスカレーター受験組は気楽でいいよなあ!」
そんなからみかたをされたように記憶している。
だが俺は穏やかな性分の、自分の精神を完璧に制御できる、人生百万一回目の十七歳だ。
人生一回目の十七歳男子にからまれたところで心に波風が立つはずもない。ただ、相手の精神に余裕がないことを哀れむだけだ。
しかしこの時はたまたま親切な気持ちだった――たぶん将来における『雇用主確保』という目的がいったんの解決を見せたからだろう。
未来が安定していると心が広く、また、人に優しくなれるものだ。
だから俺は勉強をがんばるあまり心に余裕をなくしてしまった外部受験を目指すそいつの考えの誤りを正してやろうと思った。
成績トップというのは、日々のたゆまぬ努力により達成できたものだよ。
君たちは今、必死に勉強してて、『自分はこんなにがんばってて偉い』と思っているのだろうけれど、俺はただ、君たちが今慌ててしているような努力を、これまでの二年間、ずっとやってきただけなんだ。
だから、人のことを気楽だなんだとわめきたてて、むやみに酸素を消費するよりは、もっと頭に酸素まわして、お勉強がんばったほうがいいんじゃないですかぁ~↑?
なぜだろう、キレられた。
しかし俺は今、優しい気持ちでいっぱいだった。
心の広さは空と同じで、気持ちの明るさもまた、同じだった。
雨期のせいで分厚い雨雲に覆われ、いくぶんか低くなっているような空を教室の窓から見上げながら、ため息をつく。
世界は真っ昼間だというのに全然明るくなかった。もうずっとこんな調子で、長く、長く、強くはない雨がしとしとと数日にわたって降り続いている。長らく太陽の光を浴びていないせいだろう、少しだけ体調が悪いような気さえしていた。
だけれど俺には慈悲があった。心はあの空のように広々としていたし、気持ちは今この瞬間の世界と同じぐらい明るく、晴れやかだ。
だから俺はキレたヤツになおも対話を試みる。
尽くした言葉は色々だったが、そのすべてを集約すると『黙れ、猿』になる。
猿vs人の戦いが始まった。
なぜこの蒸し暑い中、戦いなどという愚かなことをしなければならないのかわからない……俺は悲しみでいっぱいだった。
まとわりつくような湿度の高い空気は動くたびに不快感という重しを俺の手足に乗せてくる。少し動けば発散できるかと思い、猿との戦いに応じてやったが……やれやれだ。シャツは汗で濡れるばかりだし、空気は相変わらず重苦しいし、まったくもって不愉快なだけだ。
俺は慈愛の心をもって、いどみかかってくる猿をあやした。
クソが! お前だけがイラついてると思ってるんじゃねーよ! 三年生になってから俺がいったいなん人にお前と同じからみかたされたと思ってんだ! こちとら地道に勉強してんだよ! 楽して成績トップとってるみたいな言いかたされるのは心外なんですけどねぇ!
心は穏やかだった。俺は今、悟りにいたっているのかもしれない。
そう、いらだつはずがなかった。
たとえば飼いスライムがズボンの上で粗相をしたら、いちいち全力で怒るだろうか?
いや、もちろん最初はいらだちにまかせて怒鳴るかもしれない。しかし怒鳴っているうちに気づくはずだ。『こいつには言葉が通じないのだから、怒るだけ無意味だ』と。
だから論理的に自分の怒りを表現する必要はない……ただし、しつけは必要だ。
相手の苦労をおもんばからず、自分のいらだちのために不当に他者をおとしめる……これはきっと、社会に出たあとで悪癖となって自分の首をしめる。
だから俺は相手のために、二度とそんなことをする気が起こらないようしつけてやらなければならない……俺は猿の腕を極めて床に引き倒しながらそんなことを考えていた。慈愛のあふれた肘関節が極まっていた。
「だからお前のケンカは素人のヤツじゃないんだよぉ!」
猿の名前はマーティンといって、こいつは俺とケンカするのが初めてではなかった……
しかし俺は壊さない程度に肘と肩を極めながら思うのだ。
彼の勇気は賞賛に値する……マーティンとはなにかにつけてケンカをしてきた。絶縁を考えたことも一度や二度ではない。相手もそれは同じようで、時には口で、時には暴力で雌雄を決し、そのことごとくに俺は勝利してきた。
だというのにいどみかかってくる勇気……それは蛮勇とも呼べるのかもしれないが、それでも、一度たりとも勝利できない相手にいどみかかる踏ん切りの良さ、とでも言うものは、俺も見習うべきかもしれない。
ちょうどミリムとの関係が手詰まりで、あの日恋人試用期間を始めてから、妙に緊張してしまい、いつものように家に呼ぶことさえおぼつかなくなってしまっている。
このままではせっかくの試用期間がいたずらに疎遠になったままで終わってしまう。
俺はなにか、ミリムと恋人らしいことをせねばならなかった。だが、なにをしようがまったく勝算が見えないために、ことごとくをためらっていたのだ。
だが、マーティンに教わった。
時には勝算の見えないまま進む、蛮勇も必要だ――
ありがとうマーティン……俺は肩関節をひねりながら礼を述べた。暴力はいい。モヤモヤが晴れる。
特に『仕掛けてきた相手をひねる』というのはほどよく自尊心も満たされ、正当防衛の大義名分も立つので、俺の大好きな種類の暴力と言えた。
マーティンを組み敷きながら、窓の外を見る。
――いつのまにか、空を分厚くふさいでいた雨雲に切れ間が。
そこから漏れる光は、まるで俺の明るい未来をあらわしているかのようだった――
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