43話 命と尊厳
生きることが最優先で、それ以外のすべては
だから俺は『死』を感じさせるあらゆることをやらないように生きている。
他の者、今回特にカリナたちから『どうしてそこまでカッチリやるの?』と言われた『スケジュール管理』も『死なないための活動』の一環だ。
疲労をためない。あせらない。無理をしない――『生きる』ことをまったく甘く見ていないので、生きるための戦略的努力が俺のスケジュール管理にはあらわれているのだ。
さて、どうにか締め切りに間に合わせ、つつがなく印刷を完了し、カリナと俺たちは夏の祭典へと旅立った。
印刷した本は、印刷会社から会場に直接搬入されるらしい。
去年などはそのへんのコピー機でコピーして手作業で綴じて手ずから持ち運んだようなので、これもまたスケジュールをしっかり管理したおかげでいらない苦労をしなくてすんだ好例と言えよう。
俺たちは即売会会場で、六時間をかけておおよそ六十部の本をさばくことになる。
完売は『すればいいけれど、しないと思う』とのことなので、一時間に客は平均すれば最大でも十人で、立ち読み客をふくめても三十人は絶対にいかないだろう。
楽な業務だ。
コスプレ売り子と聞かされた時はてっきりキャラクターにそぐわないあらゆる行動をしてはいけないのかと想像し勝手にヒヤヒヤしたものだが、『服を着て座っていればいいだけ』らしく、余計な心労を負わずにすみそうだ(いちおうキャラを演じるために予習はした)。
もちろんうちの店(サークル、と呼ぶらしい)は四人もいるからして、交代で店番にあたることができ、休憩時間が発生する。
始まった即売会は開場直後こそ人通りも多く、客も多かった。
カリナたちの固定ファンみたいな人がいるようで、その人たちがいくらかのあいさつを交わしながら本を買っていき、俺は応対するカリナの横で存在感を消しているだけでよかった。
一時間もすればだいぶ人の波もおさまってきて、俺はカリナに休憩の許可をもらう。
休憩といってもすることはない。
トイレ、あとは食事ぐらいだろうか。
たった一人でよく知らない会場に放り出されてもやることが思いつかない。
が、ここで扱っている本は一般書店ではまず扱わないものばかりなので、見てまわるのはやぶさかではない。俺は本が嫌いではなかった。なぜなら、本を読むことで命の危険を味わうことはありえないからだ。
俺は本を求めて会場を歩き回ることにした。
会場はいくつかのブロックにわかれており、それぞれ扱っているジャンルが違うらしい。
カリナたちはいわゆる『女性向け二次創作』だが、
まあなんとなくめぐろう、まずはトイレ――そんなことを思いつつ、俺は一時間という時間をどう使ってどうまわるか、会場内の地図を見て予定を立てた。
――この時の俺は、わかっていなかったんだ。
即売会会場がどれほど混んでいるのか。
サークルから見る景色と客として見る景色はまったく違うものだった。
長蛇の列ができるトイレ。トイレ列に並んだと思いきやそこはサークルの最後尾で、トイレを横目になぜか俺はよく知らないキャラの二次創作本を買っていた。
並んでるだけで三十分経ってるとかウッソだろお前! 俺に許された休憩時間は一時間。すでに半分を消費してしまったことになる……
俺はさっき『せっかく並んだんだからただ引き返すのも悔しい』という思いで購入した薄い本を抱きしめながら考える。
トイレ、トイレは無理だ。
今からあの列に並んでは三十分以内にカリナのもとに帰れない……俺は
いける? 無理? そこをなんとか。わかったわかった。無理を強いる代わりにそちらからの条件は可能な限り呑もう。走るな、下腹部に衝撃を受けるな、これ以上の水ものをとるな……わかった。だが会場は暑い。熱中症と失禁なら俺は失禁をとる。人は恥をかいても死なないが、汗をかかないと死ぬのだ。わかってくれ。わかった? よし、契約成立。
膀胱とは話がついた。
俺は慎重な足取りでカリナたちのいる場所へ戻り始める。会場は時が経つにつれ空いていったが、俺がいる男性向けブロックはそれでも人が多い……暑い、そして変なニオイがする……
俺は人波の流れに逆らいすぎないように歩く。膀胱との契約があって、あまり力強い動きができないのだ。
流され流されようやく男性向けブロックを出たところで残すところあと十分。間に合わない可能性を見てカリナたちに連絡を入れようとするも、携帯端末は『通信不能』を示していた。
魔法世界である。そこらにいる一人一人がアンテナの役割を果たすこの携帯通信端末は、しかしあまりに人と邪念が渦巻きすぎてその機能に不全を起こしているようだった。
焦る。だが焦るな……焦りはストレスだ。ストレスは寿命を縮める。
俺は急いで歩いた。
膀胱が叫ぶ。『話が違う!』いや違わない。走ってはいない。走るのはそもそも会場のルールで禁じられている……これは早歩きだ。
女性向けブロックに戻った時、俺の頭は『おしっこ』という言葉でいっぱいだった。
思考がおしっこに支配されている……俺は人なのか、それとも尿なのか。そもそも人とは尿なのではないか? 人はそのほとんどが水分でできている。尿もそのほとんどが水分だ。そして尿の成分は血液に近い……利尿作用のある飲み物はだいたいが心拍数増加をうながす効果も持っているのはそのためだ。心臓が興奮作用で脈打ち全身に血液を巡らせる時、尿も膀胱を目指してめぐっているのである。つまり血液とは尿なのだ。
俺は血管中をかけめぐる尿の流れを感じながらカリナたちのところを目指す。イヤな汗が出てきたが、逆に考えよう。人は尿。血液は尿。ならば汗も尿に他ならない。
俺は許された休憩時間を超過してしまうことへのストレスから額に尿を流し、そしてドキドキと心臓を鼓動させ全身で尿をまわしながら、すりあしで向かう。
カリナたちの姿が見えたタイミングで時間を確認する――どうにかまだ数秒ある。よかった……俺は額に浮かんだ尿をぬぐいながらカリナのもとへすり足で歩いていく。よかったよかった。焦りすぎて口から尿が飛び出すかと思った。ここで言う尿とはすなわち心臓であった。
おりしも我らがサークルはちょうど来客中で、カリナはその応対をしていた。
人のはけたタイミングを狙ったのか、来客はカリナとずいぶん長く話し込んでいるようであったし、カリナも迷惑をしている様子でもなかった。
俺は感慨深いものを覚えた――かつて、中等部の同じクラスに友達がいなかったカリナが、趣味の場所で多くの同志を見つけた。
これは俺には関係がないことだ。カリナが勝手にやったことだ。完全にカリナの力だ――そうわかっているのに、なぜだか俺の中にはほこらしいような気持ちがわきあがってきた。
「あ、レックス」
カリナが言う。俺は尿のように軽く手をあげる。お客さんがちょうどいいという感じでカリナに別れをつげる。ちょうど俺がお客さんとすれ違うタイミング。
まわれ右したお客さんの手が、俺の下腹部を叩いた。
「あ、ごめんなさい」とお客さんは言う。軽い謝罪だ。実際そんなダメージでもない。とん、と手がおなかにぶつかっちゃっただけだ。今の俺には致命の一撃だった。
出るぞ、いいか? ――膀胱が言う。俺は『否』と告げた。出るな。人は恥では死なないが、高校二年生男子はコスプレ中に一つ年上の女子の前で失禁すると死ぬ生き物だ。
しかも今はエロではないがほとんどエロに近いエロよりエロい本を薄い本を持っているんだ。こんな状態で失禁したら色々あってもだえ死ぬ。
俺はお客さんを見送ったあと深く長く息をはいた。肺の中の空気を出し切る。全身に尿がめぐっているのを感じる。額から尿が流れるのを感じる。目を閉じる。息を短く吸い、長く吐く。
「レックス、どうしたの?」
なんでもない。次の休憩に入るんだろう? 行ってくれ――
俺の理性はそのような言葉を口にしようと思った。
だが実際に俺が述べたのは、『トイレいかせてください』だった――
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