35話 盤石なる人生
アンナさんから突然『会いたい』という連絡をもらったのは俺が十六歳になった冬のことだった。
通常の高等部三年生は受験の準備でいそがしい時期だ。
ここはエスカレーター式で進める学園ではあるのだが、高等科から大学への進学には入試がある――外部から入ろうという者よりは有利な補正が得られるとはいえ、それなりに気合いを入れた勉強が必要な試験難易度のようだった。
ところがこの入試を免除されるケースがあって、それは高等科の三年間を成績・品行ともに優秀に過ごした者にあたえられる『推薦』という特権を有している場合だ。
推薦において評価される『品行』は、生活態度の優秀さはもちろんのこと、学業以外の学校関係活動も問われる。
たとえば生徒会長におさまるなどすれば、品行面では盤石と言えるだろう。
その点、アンナさんはいっさい問題なく推薦の権利を得ている。
成績優秀、スポーツ万能、習い事でやっているピアノでは何度もコンクールの花形となり、後輩にも優しく、なにより中等、高等それぞれの教育課程でともに生徒会長をつとめあげているのだから。
雪がまばらにちらつくその夜、呼び出しに応じた俺は、アンナさんと出会った日のことを思い出していた。
最初、彼女は俺の監視役として遣わされた三歳児だった……思えばそのころにはもう、遠大なる彼女の計画は始まっていたのだろう。
俺も十六歳になればわかることも増える。彼女は保育士に従順なフリをして、将来の安定をあの当時から考えていたのだ。
実際、彼女は『ひずみ』や『ねじれ』のない人生を歩み続けてきた。
幼稚舎時代から始めたピアノでは界隈で名を知られる演奏者になっているし、成績は当然のごとく優秀で、その人格から人気も高い。
当たり前だが教師陣からの覚えもよく、かといって偉ぶることもないから同級生、後輩からも好かれている。
彼女は『世界』を味方につけるために行動を続けていたのだ。
その盤石にして確固たる歩みは、俺の見習うべき、そして俺の目指すべきものであった。
『世界を味方につける』。
そんなこと、俺は考えにさえ浮かばなかった。世界とは敵であり、いかにあざむくかは考えても、『いかにあざむき、味方につけるか』などと、そこまで期待できるものではなかった。
難行に決まっている――だが、アンナさんはこれをたやすくやってのけ、十八歳現在の様子だけ見ても、この先なん十年経とうが、あの人はずっと盤石なる道を確固たる足取りで歩み続けるのだろうと想像できる、たしかさがあった。
もしかしたら、アンナさんについていけば人生は安泰なのではないか?
そんな考えが浮かんでしまい、俺は実際に、なん度もアンナさんのヒモ(女性の稼ぎで食べていく職業。業務内容は『でっかい夢を語る』『家事』など)になろうと計画したぐらいだった。
雪は次第に強さを増していく。
俺は待ち合わせ場所に向かう足取りを速める。
街は夜だというのに明るい。それは今が『聖誕祭』と呼ばれる宗教的行事のさなかだからだろう。
宗教的行事――とはいえ、もはやその宗教色は薄まっている。
とある大きな宗教の中心的存在である聖女の誕生を祝うはずのこの日は、しかし、多くの人にとって『家族や恋人とごちそうを食べながら語らう日』になっているようだった。
そういえば街中には男女二人組が多い。――カップル。いつの間にか聖女は愛のダシに使われ、宗教は企業の金儲けに利用されていた。
神の存在感が薄れたこの世界を、俺はしかし、いいところだと思うようになっていた。
神というのは俺にとって『突如出てきて理不尽なルールを押しつけるだけ押しつけてあとは放置する』という迷惑存在だ。神とは祈る対象ではなく呪うべき存在なのである。そんなものを感じない暮らしが続くのは、いいことに違いがなかった。
ただ、街にはどうにも『普段よりちょっといい服を着る』みたいなドレスコードがあるように思える――格好つけているのだ。聖なる夜だかなんだか知らないが、みな気楽でいいものだと思う。
だがドレスコードはドレスコードだ。やはり目立たないことが第一目標の俺も、普段よりちょっとだけよさげな格好をしていることは、否めなかった。
別にアンナさんに呼び出されたからなにかを期待してるとかそんなことはなくて、そう、偽装にしかすぎない。いつもより多めのお金を持っているのも偽装の一環だ。デートコースについて書いてある雑誌を試し読みしたのもまた、偽装の一つだと言えよう。
俺は待ち合わせ場所にたたずむアンナさんを発見して、思わず隠れた。
このあたりは特にカップルどもの〝圧〟が強い――普段、普通に待ち合わせによく利用されるランドマークなのだが、今はカップル以外立ち入り禁止みたいな明文化されていないルールを感じる。
アンナさんからの呼び出しでなければミリムに『ショッピングモールに入りたいのにカップル多すぎて一人だと入りにくい。助けて』と連絡をしているところだ。
しかし、アンナさんとの待ち合わせだしな。一人で行かないのは失礼だろう……
いや、なにかを期待しているというわけではないのだけれど。
この聖誕祭は『もともとできてるカップルが愛を確かめ合う』のと同じぐらい『つきあおうという男女が告白するタイミング』としての側面が強いのは既知のことである。
が、俺は別になにも期待はしていない……そんなことがあるはずないと、百万回の人生経験でわかっているからだ。
俺は待ち合わせ時刻にまだ少しあるのを確認してから、身だしなみの最終チェックのために近場のトイレに駆け込んだ。
鏡を求めたのだ……けれどそこには俺と同じようなことを考えているのか、鏡の前で長々と身だしなみを整え続ける男たちがいた。
けっきょくタイムリミットまでに鏡を使うことはかなわず、俺はいくらかの呪いの言葉を心の中で『鏡の男』に向けて吐くだけで、待ち合わせ場所に急いだ。俺は呪いにおいても才能はなかったが、それでも『鏡の男』には小さな不幸ぐらいはおとずれるだろう……そう、犬のウンコを踏むとかだ。
俺は前衛芸術的な巨大時計の前でたたずむアンナさんのもとに駆けていく。
まばらに咲く傘の花のあいだを抜けて、石畳の上にうっすらと積もった雪を踏みながら近づけば、彼女は俺に気づいてうれしそうにほおをほころばせた。
俺はなにも期待していないが、彼女の顔をまともに見ることができなくて、視線を下げた。
下げた場所にはタイツに包まれた足がある……60デニール。中等部時代の甘酸っぱい思い出とともに、そんな言葉が頭をよぎった。
「ごめんね、いきなり」
彼女はまず、謝罪した。
俺は色々と彼女にお追従する言葉を探したんだけれど、なにを言ってもボロが出るような気がして、はにかみながらうなずいた。うなずいたあとで、『首を横に振るべきだろ』と気づいた。死にたくなってくる(天寿はまっとうしたい)。
俺はまだまだ緊張などでこういう失敗をしてしまう――盤石なるアンナさんから、俺のこういうところは、どう見えているのだろう?
俺はやはり彼女にあこがれていた……彼女が緊張や不安から失敗する姿はまったく想像もつかない。そして、そんな『安心感』とも呼べる確固たる歩みは、将来なん十年も、同じように続いていくだろうと想像にかたくなかった。
アンナさんは口ごもったあと、言う。
「実は、家出したの」
盤石な……
……
……えっ?
…………えっ?
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