29話 不可知

 俺の中の百万回転生した部分が警鐘を鳴らしている。


 そうだ、どうして気づかなかったのだろう?

 マーティンからの誘い、カリナの快諾。プールに行く話はとんとん拍子で決まり、そこにはなにも障害らしきものがなかった。

 俺はいともたやすく目的をかなえてしまったのである。


 おかしい。


 だってそうだろう、物事はうまくいくはずがないんだ。うまくいっているならそれは『敵』からの罠を疑うべきなんだ。

 だというのに――中等部の夏休み、男女二人ずつで遊泳アミューズメント施設に行こうとしている。そこにはなんの障害もなくて、いともたやすく、夏をエンジョイする準備が整おうとしていた。


 間違いない。罠だ。


 だが、誰がなんの目的で俺に仕掛けた罠なのかわからない。

 これは脅威だ。


『敵』の姿はあいかわらず見えない。ならば目的もわからない。俺が『敵』について知っていることといえば、『闘争心を削ごうとしている』という、おおまかな方針だけなのである。


 検証が必要だ。


 大型遊泳アミューズメント施設行きを週末にひかえたころ、俺は『罠』の仕掛け人が『どちら』なのか検討していた。


 この状況にかかわっているのは二つの勢力だ。

 プールに行こうという話とチケットを持ってきた、マーティン。

 そして、俺の誘いにいともたやすく乗ったカリナ。


 マーティンは幼なじみだ。

 つきあいは保育所時代からになる。すなわちすでに十年来の友人だった。

 その言動や思想はそこそこの注意深さをもって精査し続けていたので、マーティンが『敵』である可能性は低く思える。


 しかし一方で『親戚からプールのチケットをもらった』というところに陥穽があるようにも思えた。

『親戚』がマーティンを使ってなにかをしようとしている可能性もまた、捨てきれないのである。


 そしてカリナ。

 彼女はどうにも前世からつきあいのあるらしい俺の同志だ。

 だが俺はカリナについてよく知らない……『敵』との戦いのため、あるいは外部受験対策の勉強のためにおおいに語らうが、彼女のパーソナルデータにかんして、なんら情報を持っていないのである。


 そもそも俺の見立てでは、カリナという女子は夏休みのアミューズメント施設とか絶対に行きたがらない性格の持ち主だった。

 それがあっさりと同行を承諾したのだ。

『勉強を教えてもらっているお礼』という承諾理由にはいったん納得したが、それが『行きたくもない光属性の空間に行く』ほどの動機の発生源たりうるとも思えない。


 それとも女子とはそういう気まぐれを起こすものなのだろうか?

 わからない。

 俺は女子について知らなかった。知ることは願いでさえあったのだけれど、男子と違って女子の中身は複雑で、俺は彼女たちの内心についての推察にいつも難儀させられていた。


 プールに行く日までは残すところ一週間さえなく、この期間で、今までなしえなかった『女子について知る』という難行をこなせるとはとうてい思えない。


 そこで俺は、女子の内心について知るために、アドバイザーを招くことにした。

 中等部一年生となったミリムである。


 家に招いて宿題を見るついでに、俺はミリムに問いかけた――実は来週末に大型プールの、ほら、あそこに行くことになったんだけど……


「…………わたし、誘われてない」


 俺はテーブルを挟んで向こう側にいるミリム――の後ろで揺れるしっぽの動きを見た。

 カーペットの敷かれた床の上で、彼女のふわふわした黒いしっぽは、床をこするようにだらりとたれ、ゆったり動いていた。

 あれは『いやな気持ち』のサインだ。


 俺は慌てて補足した――ほら、クラスメイトとのつきあいだから。同級生とのあいだに持ち上がった話で、なんていうの? 後輩を誘うヒマはなかったっていうか……

 なぜかすさまじく言い訳がましいなと自分で思った。


 俺は話しながらミリムさんにおやつのクッキーを食べさせた。俺の差し出したクッキーにミリムさんはかじりつき、もぐもぐと咀嚼そしゃくする。


 わからない、なぜ俺はこんなにミリムさんにへりくだっているのだろう?


『同級生とのあいだに持ち上がった遊びの約束にミリムを誘わなかった』――別におかしいことじゃない。おかしいことじゃないんだけど、なぜだかすごい悪いことをしてしまった気持ちになってたまらなかった。


 支配されている。


 自己分析の結果、発見する。俺はミリムの機嫌を損ねることを極度におそれていた。

 ミリムはかわいい妹みたいなものだ。つきあいは長く、深い。月に最低一度という頻度でミリムは俺の家に来る。用事がなくても来る。

 それはもはや習慣化していて、ミリムを一度も部屋に招かない月などあると、俺はなんだか落ち着かない気持ちになるぐらいだった。


 そうだ、俺にとってミリムは『水』『空気』『食事』『ミリム』という感じだった。生命活動に必要な要素なのである。

 生命活動に必要なんだから、ないと死ぬ。俺はミリムに嫌われて生きる自分というものをまったく想像できないのだった。月に一度はあの真っ黒い短髪をわしゃわしゃしないと生きる気力がわかないのだった。


 俺がミリムの機嫌をそこねることをおそれるのはそんな理由からで、これはもう赤ん坊時代のママのおっぱいと同じであり、すなわちミリムは今の俺にとっておっぱいも同然だった。いやまったく同然じゃない。ミリムはおっぱいではない……俺は冷静さを欠いていた。


 深呼吸。


 そうして落ち着きを取り戻した俺が、ミリムに『女心』についてたずねる前に、ミリムのほうから口を開く。


「誘って?」


 俺は首をかしげた。


「わたしも、プール、誘って」


 えっ、いや、その、いいのかなあ? ルール違反じゃないかなあ? うーんその、ミリムには難しいと思うんだけど、これは男と男の意地のぶつかり合いなので、俺がミリムを連れて行ったら必要以上にマーティンをたたきのめす結果につながりかねないっていうか、まあその、一緒に行こう。

 俺はミリムを誘った。

 あの黒い瞳でジッと見られると俺はまったく逆らえなくなる。


 表情にとぼしいミリムはそれでもちょっと笑って、腰の後ろでしっぽをぶんぶん振った。

 スカートとしっぽの相性はとても悪いゆえに、ミリムはスパッツ着用なので、スカートがめくれても心配はない。心配はないんだが、俺の前だけにしてくれっていうふうには思う。


 ミリムはクッキーを一枚手にとり、俺の口に運んだ。

 俺はそれを口で受け取ってうーんと悩んだ。マーティンに『もう一人連れて行っていい?』って聞いたらあいつ発狂しないかなあ。


 この世には謎がたくさんだ。

 女子の考えはけっきょくわからない。俺にはあまりにも難しいメカニズムにより動く、謎の知的活動体なのだろう。

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